2012年3月29日木曜日

三国志大戦3の皆さんの魏のデッキを教えてください。スキルもかなり左右されますが...

三国志大戦3の皆さんの魏のデッキを教えてください。スキルもかなり左右されますが、敢えてデッキのみで今回はお願いします。
私は曹操、UC楽進、ヨウコ、ホウ徳、カクです。







SR張遼、Rホウ徳、UC曹仁、UC楽進、Rカクです。俗に「純正神速」と呼ばれているデッキですね。

粘り手腕や挑発入りには苦戦を強いられますが、現ver.では十分闘えますよ。








SR曹操 UC夏候淳 R郭嘉 C郭皇后 UC楽進 軍師は司馬懿



離間は理屈では強いのはわかってるんだけど士気6だから狙いすぎていつも遅れるから使ってないですね・・・

三国志大戦3・5に関する質問です。騎馬単神速の場合、挑発が入っている相手に対...

三国志大戦3・5に関する質問です。騎馬単神速の場合、挑発が入っている相手に対してどう対処すればいいんでしょうか?編成は張遼、曹操(求心)トウガイ、楽進。軍師、郭か、ジュンユウです。お願いします。







止まりましょう。

間違って刺さったなら離れずそのまま連突。正直神速は忘れて覇者求一本で戦うべき。

範囲外から止まり、オーラ出る直前で止まり、相手の槍激が当たったらそいつは乱戦して他で連突。

馬稷とかならビタ止め無視して1部隊突っ込ませても。

ビタ止めのときに全部隊止めない。片手で2枚ずつ動かして、2部隊止めて、2部隊は止めた部隊の少し後ろでオーラを維持。これが一番ウザイ。間違っても全員範囲に入ったりしないように。








挑発射程範囲前から止まる。ちょっと進んでまた止まる。



張飛の場合は曹操だったら止まっていれば刺さる前に挑発が切れます。



馬謖など高知力の場合は求心で迎撃ダメを減らしつつ槍をすり潰す。



1コストには楽進よりカクか劉曄、郭皇后推奨。妨害がないのはいざというとき辛いです。



伏兵が3部隊の場合1部隊は城内発進、張遼も城内でも可。



神速にこだわらずに求心(あれば妨害)も絡めて上手く判断して戦えば良いと思います。



軍師は保険の再起と神速が使える張春華がいいと思います。







誰が挑発するのかにもよるが、求心使って武力差ですり潰せばよかろうに



求心は飾りなのか?







ただの槍なら神速号令を使用する前はビタ止めでなんとでもなる



挑発がいるなら敢えて楽進とトウガイを先に突っ込ませ壁にして

曹操と張遼で連突

固まらなければ1~2部隊の挑発になりやすい為

なるべく分散し連突

三国志(演義)のなかで、1番優れた軍師は誰だと思いますか・・・?

三国志(演義)のなかで、1番優れた軍師は誰だと思いますか・・・?

私は孔明はそれほど優れた軍師に感じないのですが・・・



まだ仲達など曹操の軍師のほうが全体に優れてませんか?







史実だと、孔明は政治家としては有能だが、軍略家としては少し無能に書かれていたかと…

(まぁ史実は晋よりの歴史書物ですし)



私自身も(演義)では司馬イ が優れていると思いますよ、

都に上り正式な勅命を受けるよりも孟達の反乱を討った事も

孔明の挑発にも乗らず、持久戦に持ち込んだ事もありますし。








演義と断定しているようですから諸葛孔明で決まりでしょう。

正直演義では孔明を抜いたらみんなどんぐりの背比べです。

天才軍師孔明はもう別格でしょう。







演義で言えばやはり諸葛亮が一番でしょう。



政戦両略に通じ、神の如き作戦立案能力、風を起こし、火を操り、火器搭載の戦車を発明ともうやりたい放題です。



なので、こういうネタの時は正史なのか演義なのかどちらかに絞った方が良いと思いますw





史実の諸葛亮は既に回答されている方が居られますが、政治家向きの人材だったようです。

ただし、軍事方面は戦略眼はTOPクラスで、ただし戦場全体の作戦立案能力が中の上、一個の部隊を指揮する能力は並といったところが現実だったようです。



実際の戦争だと直に将兵と触れて初めてわかる戦闘の呼吸みたいなものがありますから、書生上がりで実務経験の乏しい孔明には実戦は苦手だったかもしれません。



劉備が曹操を翻弄した漢中攻略戦は法正の活躍が大きかった事ですし、法正没後の蜀の軍事作戦が平凡(勝ったり負けたり)な戦果だったのも諸葛亮がそれほど作戦立案能力に長けていなかった事の証明かもしれません。





そもそも軍師と言う役割が多岐に渡るので単純な比較は難しいでしょうね、賈詡のように謀略で君主をサポートするタイプも居れば、孔明のように天下三分と言う戦略でサポートするタイプ、荀攸のように戦場で力を発揮するタイプそれぞれです。



私個人的なランキングでは





戦略立案(諸葛亮)



言わずと知れた三国時代の立役者(デザイナー)、中華を三分して呉と共闘して魏に対抗すると言う基本構想は誠に理にかなっている、また皇帝の一族を称する劉備を漢の高祖になぞらえ漢中王にするなどグローバルな視点はさすが。





謀略(賈詡)



南陽での曹操撃破や馬超・韓遂離間など、正攻法ではない人の心の弱さを攻める策なら一番か。





戦術(荀攸)



下邳城の水攻め、官渡キャンペーンでの顔良戦、文醜戦、鳥巣急襲、袁家残党掃討戦と曹操の前半戦ほとんどの作戦立案に関与、彼の勝利に貢献。





シバイは非常に優秀だと思うけど個々の能力はそれぞれのトップレベルにちょっと足りない感じ、トータルバランスで勝負ってところでしょうか。







国の大局を見通して、中・長期ビジョンを提示し、政治・軍事・外交

すべてに精通して、他の家臣からの尊敬も集めている点ではやはり

孔明に勝る人はいないのではないでしょうか。赤壁の前、劉備が追い

詰められたとき、放浪の武将の名もなき一軍師でありながら、単身呉

に乗り込み、なみいる呉の群臣を論破して、孫権に決戦を決心させた

才能と行動力を、私は特に評価しています。北伐は失敗しましたが、

人口比で魏の1/5といわれる蜀が、経済力も人材も豊富な大国魏

を倒すことはもともと不可能に近かったといえます。

仲達も結局、孔明の才能をおそれていたからこそ、倍する兵力を持ち

ながら、打って出ずに、蜀の疲弊を待っていたと考えられます。

魏でいえば、曹操に適時適切な助言をしてその創業を助けた荀彧が

一番ではないでしょうか。彼が袁紹を見限ってやってきたとき、曹操は

小躍りして喜び、「我が子房(漢の高祖劉邦の軍師)がきた」と叫ん

だといわれます。なにか問題が起きると、曹操はかならず彼を呼び、

意見を求めたいいます。遠征中、呂布に本拠を攻められたときには、

荀彧が守る城だけは侵攻を許さずに保ち、、曹操軍の崩壊を防ぎ

ました。袁紹との官渡の戦いで曹操が劣勢にたたされて撤退を考えた

ときには、袁紹軍が兵糧の工面に困っていることをあげて諌めています。

さらに、曹操の初期の軍師戯志才や、自分の甥の荀攸、郭嘉など、

曹操を支えるブレーンを多く推挙して、曹操軍の参謀を整えました。

また、呉でいうなら、疑いなく周瑜です。三国志演義では孔明に翻

弄されているように描かれていますが、実際は孔明もみとめる英傑で

あり、生前、孫権に蜀の併合を進言して、遠征に向かう直前に病死

したようです。

三国志大戦3で 全突デッキか覇者求デッキの対策法を教えてください。(できれば2つ...

三国志大戦3で

全突デッキか覇者求デッキの対策法を教えてください。(できれば2つとも教えてほしいです)

検索用

蜀 曹操 馬超 郡有 魏 呉 漢







デッキがわからないと答えられることがほとんどないです。



全突に関してはUC法正やR魏延(極意)を中心としたデッキなら、よほど下手な戦いをしない限り勝ち確定ですし、逆に槍兵が全くいないと負け濃厚になりますからね。





対策を強いて挙げるなら号令発動前に敵の頭数を減らすこと…これで号令の破壊力を抑えることが出来ます。

あとは槍兵は乱戦は極力避けること。突撃を防ぐためにも常に槍オーラを出し続けるのが理想。

騎兵主体のデッキなら攻城被害も少ないので、時には守りを捨ててカウンターに賭ける、という判断も必要。(号令切れるまで自城に避難、ただし城門はローテーションで守る)



こんなところですかね。










全突は車輪か長槍で対処出来るでしょう。

覇者求は雲散や反計、麻痺矢、あえて城内に篭って効果切れを待つ、鉄鎖連環(兵軍連環)を引くとか封印するとか色々あります。大喝で止めて突撃しまくるとか相手が壁に引っ付いた所で神速号令で殲滅するとか。







号令を打って城内してたら守れます

正史三国志は曹操が主役で、三国志演義は劉備が主役ですが 曹操と劉備の両方が脇役...

正史三国志は曹操が主役で、三国志演義は劉備が主役ですが

曹操と劉備の両方が脇役(第三者が主役)の三国志書物はありますか?







曹操と劉備ときたら、孫堅、孫策、孫権ということで・・・。



●呉三国志長江燃ゆ(伴野朗)集英社文庫全10巻

今一地味な(呉ファンの皆様ゴメンナサイ。)

呉を主人公としたことには拍手を送りたいですが、

10巻の途中まで孫権が生きています。

孫権死後をもう少し書いてもらえてたら満点だったですけどね。








たくさんあるじゃないですか







厳密には、正史三国志は歴史書ですので、曹操が主役という訳でもないんですがね。



その考えに従うなら、正史の「晋書」は宣帝司馬懿が主役とも言えます。



他、小説や漫画などでは、関羽や諸葛亮が主役のものも探せばあると思いますよ。







『秘本三国志』…陳舜臣(仏教と道教という視点からの作品)

三国志演義の作者は、曹操と孫権のどちらを特に嫌っていたと思いますか?

三国志演義の作者は、曹操と孫権のどちらを特に嫌っていたと思いますか?

曹操が嫌いだから悪役に仕立てたとも考えられますし、孫権が嫌いだから脇役で冷遇したとも考えられるのですよ。

皆さんは、どのように思いますか?







小説「三国演義」は、明代に小説化されましたが、もともとは宋代の講談が元になっています。宋の南遷後、在りし日の東京・開封の栄華をしのんだ「東京夢華録」と言う本に、「講談の”説三分”を聞くと、子どもたちは曹操が勝つと涙を流して悔しがり、劉備が勝つと手を叩いて喜んだ」とあります。



つまり北宋時代から、一応の成功者たる曹操は悪役であり、孤軍奮闘していた劉備陣営はヒーローだったわけです。別に、羅貫中が勝手に役柄を設定したわけではありませんよ。「判官びいき」は変わらない、という奴ですね。

曹操在世時から、「成功者」だった曹操は妬まれ、「曹瞞伝」をはじめとする曹操の悪口を連ねた書物が多数存在していました。

これまでの通例に従って曹操を悪役にしましたが、曹操にはそんな作家の思惑を超えた魅力があり、完全に悪役に仕切れず、文章からにじみ出る「人間的魅力」を隠し切れませんでした。



逆に江東の孫一族は「ド田舎の地方豪族」として、さほど世間の相手にはされていませんでした。

中原ではほとんど地方の蛮族扱い、社交界の話題にもなっていませんでした。この当時の中級官僚程度の人に「呉の孫権って、どう思う?」ともし聞いたら、一様に「誰、それ?」といわれたことでしょう。

ただ、数代に渡って足場を固めた結果、記録類が整備されていて、そのため「正史」にも、劉備陣営より詳しく記録が残ったのでした。



そういう意味で、「好きでも、嫌いでもない」ということです。中国文学者・守屋洋は「孫権は三国志の脇役」、小説家の北方謙三も「呉は天下に興味のない、保守的で魅力のない国」とはっきりいっています。

本国でも関心あるひとは地元の人くらいで、「孫呉」がこれほどクローズ・アップされているのはおそらく、日本だけの特殊事情といえそうです。








曹操が悪役なのは、魏が皇帝の座を奪い取っておきながら

中華統一できなかったから、逆賊扱いになったわけで、

呉(孫権)に関しては、家督争い以外で盛り上がるストーリーが

無いからじゃないですか







三国志演技を含め、水滸伝・楊家将演技等の演技ものは、「元」の時代に形成されました。これは、モンゴル人が支配する「元」王朝の身分制度、モンゴル人(第一身分)色目人(第二身分)旧「金」国人(第三身分)旧「南宋」国人(第四身分)によって、本来中国の正当な支配者である「南宋」の国民であるにもかかわらず虐げられて居る国民意識の高揚の表現でもあったのです。



では、なぜ三国志演技で曹操が悪役になったか?曹操は本来、「後漢」の家臣であるにもかかわらず、その「後漢」を乗っ取る寸前(乗っ取ったのは曹丕)まで追い込んだやつ=モンゴルのような異民族にみたてて演じているからです。表立ってモンゴル人の悪口を言えないので、モンゴル人と曹操に見立てているからです。



劉備の建てた国が「蜀漢」ともよばれ、正当な漢王朝の後継者=自分たち旧南宋人、呉は・・・別にあってもなくても良いからほっとかれてます。



そのせいか、無理やり曹操を悪人にしてるので、三国志を読めば読むほど・・・劉備の方が悪党に思えてくるのはボクだけではないと思います。







劉備が好きだったのでしょう。

だから、最も強大な曹操を悪役にし、次に強力であった孫権を脇役にしたのです。

もちろん劉備が好きで、その劉備の善人さを強調するために、曹操を必要以上に悪人にしている部分もあります。

いずれにしても、劉備が好きだったということになるでしょう。

三国志で史実でも演義でも孔明や郭嘉よりも劉備の方がよっぽど打算的で頭が回るよ...

三国志で史実でも演義でも孔明や郭嘉よりも劉備の方がよっぽど打算的で頭が回るように思うのですがどうでしょうか?

公孫サンを見限り、陶謙に取り入り、呂布に許しを乞い、曹操に泣きつき呂布を討たせ、董承の暗殺計画に乗って曹操の命を狙い、ばれる直前に董承を見捨てて逃げ出し、徐州で独立を果たすも、曹操の怒涛の襲来の知らせに家族と部下を捨てて逃亡、袁紹のもとに身をよせ、袁紹を曹操にけしかける。







仰るとおりだと思いますが・・・

郭嘉や諸葛亮より頭が回るというのは違うような気がします。

劉備は本能的にどう動くべきか?という感覚に優れていたとは思いますが、郭嘉や諸葛亮のような戦略家ではないでしょう。

劉備に関わった群雄は確かに末路は悲惨な場合が多いですが、彼が能動的にやったわけではないので彼を責めるのはちょっと酷な様な気がします。








・公孫瓚を見限り…見ようによってはそううつるかもしれませんが,劉備が公孫瓚から離れた頃は,公孫瓚の勢いはもっとも最盛期の頃だし,また,平原から離れたのも陶謙からの救援要請に応えたからであって見限るというのは…

・陶謙に取り入り…曹操に攻められた陶謙を救うためだし…

・呂布に許しを請い…袁術と対陣中に部下の裏切りにあった劉備が,徐州を占領した呂布を頼っただけで打算といえるかどうか…

・曹操に泣きつき…というよりも,曹操が呂布が邪魔だから劉備をおとりに戦争を仕掛けるための道具に利用したぽいし…

・董承の暗殺計画…考えようによってはですが,許昌にいては曹操の監視がきついため一時許昌をはなれ実力を養うためにとも考えられるし…

・曹操の怒涛の襲来…袁紹を曹操にけしかけるはどうかな?あの時勢だと,曹操と袁紹の間で合戦が起きるのは間違いない状況だったわけだから,劉備の一言で袁紹が動くかな?また,袁紹って劉備をあまり認めていなさそうだったし…



旗揚げ初期から自分の領地も少なくほぼ流浪軍に近かったから打算的というよりも鼻がきくというか,危機管理おいての我が身を守るために何をすべきかを実行していく必要があったからね。だから,これだけで打算的で頭が回るというには思えないけどね。よっぽど,曹操の方が打算的で頭が回ってるよ。別に劉備の行動をかばう気はないけどね^^

どうしても打算的というなら,赤壁後に劉表の長男劉琦を荊州刺史に仕立てて荊州南部併合とか,劉璋の要請で蜀に入り,結局蜀を平定したという方が打算的だね。

三国志演義の武将で誰が一番好きですか?

三国志演義の武将で誰が一番好きですか?

劉備



曹操



孫権



関羽



張飛



超雲



馬超



孔明



呂布



張遼



黄忠



その他



有名ところばかり挙げましたが、イブシ銀の武将やマニアックな武将の回答も待っています。







周倉

盗賊あがりで関羽に仕え、最期まで共に戦い、関羽が死んだと聞かされると、後をおい自害。ん~最高にかっこよいス。エリートあがりじゃないのに、そこそこ強く、男の生き様が素敵です。

馬タイ

屈辱的な事を受けながらも、ショクの為と受け入れ、長い間屈辱的地位を我慢した。ん~最高です。

以上自分なお気に入りです。ちなみに演義しか知らないので、演義参照です。








老将コンビの片割れの厳顔さんですね



ホウ徳、郭嘉、荀彧、程昱、典韋

馬岱、王允なども好きです







やはり諸葛孔明です。

蜀のために全身全霊を賭けた忠義に惚れます。







孔明です!あのような天才な人は三国志史上1番だからです!







呉の朱桓や孫桓が好きですね。

朱桓は濡須での曹仁や石亭での曹休との戦いでの活躍。

孫桓は夷陵の戦いでの陸遜からの厚い信頼(こっちは演義の話かな??)



様々な三国志の本は蜀を正統とするものや魏を禅譲を受けたのを理由に正統とするのばかりで呉は霞んでしまっているような気もしますが、文武官一人一人の力量は魏や蜀に決して引けをとらないと思います。



だからこそ両国に幾度も攻められながらも結果最後まで(魏は晋に滅ぼされていますから)王朝を保っていられたんじゃないかと思いますよ







演義なら趙雲が好きです。



質問者さんが挙げている以外では

孫策、太史慈

姜維、夏侯覇

杜預、羊祜

あたりなんてどうでしょう。







諸葛孔明がいちばん好きです◎

三国志大戦3のデッキ診断お願いします R典韋 SR曹操 C楽進 UC陳羣(2のカード) R荀イ...

三国志大戦3のデッキ診断お願いします



R典韋

SR曹操

C楽進

UC陳羣(2のカード)

R荀イク

軍師

ヨウコ ジュンユウ



難点は素武力低いところですが


それでもこのデッキで

上に上がりたいと思います。



弱点などを教えていただけたら幸いです。

#お願いします#









R典韋は確かに人気が出てきてはいるが、それはSR司馬懿とに相性がいいがために使用率が上がっただけで求心デッキとはあまりいいとは言えません。

だったらR張郃、SR張郃、R龐徳とかにした方が戦いやすいはずです。

R典韋だと確実にダメ計の標的になります。

R典韋を使うならR荀彧を巧みに操作してR典韋をフォローしなければなりません。

あと陳羣はC蒋済にした方が使いやすいかと。



まぁでもこのデッキでも勝てないとは限りません。

総武力が低いので開幕は柵と伏兵で守り、士気7~8あたりで攻め上がります。

そして士気10でぶつかりあうようにし、求心と反計のプレッシャーで殲滅します。

超絶強化相手の場合は陳羣を温存します。

あとは軍師はそのときに応じて使い分けましょう。

DSの三国志大戦・天についてです。

DSの三国志大戦・天についてです。

魏のSR曹操の号令デッキを教えてください。魏に関してはなにも知らないのでデッキを作るのに困っています。

お願いします。







天限定覇者求心デッキ



SR曹操

SR曹丕(天限定版)

SR楽進(天限定、若しくはUC楽進)

Rカク

UC徐晃(若しくはRホウトク)

軍師C 陳羣



号令、妨害要員、

武力要員と

入れていけば無難なデッキは作れるはずですが…





反計求心デッキ



SR曹操

R羊祜

R張郃

C李典

C曹植

軍師C荀攸



刹那号令と反計マウントをいかしつつ

攻めるデッキ



天で 出来る範囲では このぐらいかと

変える点を上げれば 1,5コスを武力要員にUC曹仁を入れるぐらい。

三国志大戦3のデッキ鑑定お願いします。 SR曹操 SR司馬イ C郭ワイ C牛金 C李典 僕...

三国志大戦3のデッキ鑑定お願いします。



SR曹操 SR司馬イ C郭ワイ C牛金 C李典



僕的に司馬イが好きなので、曹操と組ませてみました。

実用するにはまだまだ弱いと思いますので

鑑定お願いします。







司馬懿と曹操の同居はまずありえません。コスト比武力が低い、求心+雲散なら夏侯惇、号令ならカク昭や妨害だが離間などでよいなどが理由に挙げられます。また主力が伏兵の為、端攻めなど踏まれない場合低コストだけで戦わねばなりません。

司馬懿が好きなら機略をメインにして、サブ計略を加えた方がいいと思います(求心も同様)。

サンプル(ありきたりですが)

SR司馬懿Rカク昭UC曹仁C郭ワイC李典

軍師は再起か増援でよいかと。








私はあえて、曹操とシバイの同居デッキでいきますw



リテンをサイボウに変えて、槍2、馬3にするか、カクワイをソウジン、リテンをガクシンにした騎馬単にします。



序盤は確実に伏兵を踏ませないと防衛力が弱いので、確実に踏ませます。

中盤からは、シバイをプレッシャーに、敵の号令を抑えつつ、無士気で攻城できたらGOODですね。



士気がたまればたまるほど、こっちは求心+機略でプレッシャーがかけられます。

こっちが先がけしても、あっちが先がけしても・・・対処法はご存知ですよね?



もちろん、同居がありえないとする回答者さんのデッキも、充分に強いと思われます。

三国志演義で呂布は本当に、最期に、命乞いをしていますか? 今、三国志(ポプラ...

三国志演義で呂布は本当に、最期に、命乞いをしていますか?



今、三国志(ポプラポケット文庫 三田村信行 文)に熱中していますが、

恥も外聞もなく、曹操と劉備に額に地面をすりつけて、

命乞いしている姿に、ひどいショックを受けています。

陳宮は、潔く死んだのに、悲しすぎます。



他の書物でもこのような書かれ方でしょうか?

呂布は関羽でも精一杯の強さだったのに、私の英雄像が、ガラガラと崩れ落ちていきます。



三国志ファンの方、ご回答をよろしくお願い致します。







確か自分を家来にしたらきっと役立つと曹操に懇願したが

劉備はこの男は自分の主君を裏切り殺してる男だから信用できない

と言ったので曹操も劉備の意見取り入れ処刑した。

最後は劉備に捨て台詞を吐いて処刑台に連れて行かれた

って話でした。って言うのが三国志演技の書き方だったと思いますが

昔見た人形劇だと劉備と呂布が一騎打ちを行って呂布が負けたが

劉備に曹操に懇願して命助けてもらうように諭された。

しかし呂布はその場で自分の首を斬り自害する。って話になってました。

人形劇だと呂布より劉備の方が強かった。








三国志演義の方では確かに命乞いしてますね・・・。

この人は元々騎馬民族で漢民族でないんです。



なので、人種的差別意識が「羅漢中」に無かったとは言えないと思う。



正史の方は読んだ事無いので知りません。

誰か他の人に訊いてみて。

_(._.)_

『三国志』における魏・呉・蜀の主要人物を教えてください

『三国志』における魏・呉・蜀の主要人物を教えてください

『三国志』を題材にしたゲーム(ADV)を友達と作ろう、という話しになったのですが、制作陣の中に誰一人として三国志および三国志演儀に造詣のある人物がいません……。

さすがに劉備と曹操と孫権が覇権を争った、っていうことぐらいなら分かるのですが……。そこで、取りあえず三国志における魏・呉・蜀の主要メンバーを取りあえず教えてください。

最低この人物達がいれば三国志の根幹は成立する、という代表格の登場人物が知りたいです。







最低線であれば以下の通り。

魏 軍師の郭嘉、荀彧、武将の夏候淵、夏候惇、張遼

呉 軍師の周瑜、陸遜、武将の黄蓋、甘寧

蜀 軍師の諸葛孔明、龐統 武将の関羽、張飛、趙雲



乱世の始まりである黄巾賊の首領「張角」、その後洛陽の都を牛耳った悪党「董卓」、その配下で飛将軍「呂布」。この3人は魏呉蜀以外ですが時代を動かした人間として頭に入れておくといいでしょう。



小説の三国志を読み込むのが大変であれば、コーエーのゲーム版三国志関係の本などを読んでみるのも良いかと思いますが、キャラクター付けは小説や正史とはほど遠いので誤解をしないように気をつけましょう。








司馬懿を忘れないであげて~

△三国志-本当の華佗さんが知りたい

△三国志-本当の華佗さんが知りたい

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最近、気になってしょうがない人がいます。

それは、華佗(かだ、? - 208年)です。



<華佗>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E4%BD%97



『三国志演義』の華佗さんは瞬間移動したり、

(瞬間移動すればいいのに)逃亡の際、羊に化けてかく乱したりしますよね。

このあたりは、演義なのでよいのですが、問題は、『三國志』です。



『三國志』では、軍の役人の18年後の病状を言い当てたり、

荀彧を遠めで見ただけで、その顔色から病名を言い当てたり、

現代医学を凌駕している気がします。



私の認識では、『三國志』=事実だと思っているのですが、

事実だとすると、華佗さんは神の使いかと思えてしまいます。

それに、華佗さんの医術がそれ以降の弟子達に伝承されていないことも気になります。



この認識自体に誤りがあるのでしょうか。

そのあたりに詳しい方、ご教示お願い致します。







正史の魏書の華佗の記載が、方技伝第二十九の筆頭にあり、かなりのページ数も割いていることからも、

この時代を代表するスーパードクターだったことは間違いないんじゃないでしょうか。

数々の神技的治療例が正史に見られますが、

腹から虫が出たり、蛇がでたりするのは、あきらかに寄生虫ですし、

そのころの衛生状態からして原生虫が原因で死ぬ確立が高かったのではと予想されます。

ここからは私の推測ですが、麻沸散(麻酔薬)を飲まして手術を繰り返し、体内の様子を把握して(そりゃ失敗もして死亡させたりはしたでしょうが・・・。)原因を突き止たり、死んだ人間を解剖したりして腕を磨いたんじゃないでしょうか。

(今の外科医も、手術の回数を増やしながら、名医になっていくんですから・・・。)

死んだ状況を細密に観察する能力に長けていたのではないでしょうか。

眩暈がするとかいうのも多分貧血でしょうし、膝にはれものがあるなんてのも、脚気の一種かも知れません。

そういう症状も、数多くの患者を診て、華佗さんは理解してたんでしょうね。

そんなスーパードクターも、さすがに曹操の頭痛(脳腫瘍だろうと言われていますが。)は手に負えなかったでしょう。

演義では、開頭手術しかないと診断して投獄されますが、

正史では、曹操の出頭命令を無視して投獄されています。匙を投げたんでしょう。それも立派な診察といえましょう。

演義では、死ぬ前に獄史に秘伝書を渡しますが奥さんに「こんなもの持っててもろくな事にならない。」と焼かれてしまいますが、

正史では、獄史に受け取りさえ拒否され、自ら焼いてしまいます。

でも、正史では、広陵の呉普が治療方法を習い、太極拳のような気を巡らす動き(体操)を実践して90歳以上長生きしましたし、彭城の樊阿は、針術を習い治療を善くしたとの記述があります。

華佗の医術は、とりあえず継承されたみたいですね。



《追記》

●太極拳の五禽戯(虎.鹿.熊.猿.鳥)は、華佗が考案したらしいですね。

ジャッキーチェンの初期の映画「蛇拳」だったか「酔拳」だったかに出てきますよね。

●正月に飲む御屠蘇も、華佗が処方したといわれる屠蘇散という漢方薬を酒に入れて飲むのが正式らしいですね。

私は酒が飲めないので、これからも飲む機会は有りそうにありません。

●脳卒中の後遺症治療薬に、「華佗再造丸」てのが有ります。

曹操の頭痛は治せなかったけど、脳の後遺症の治療薬に名前を使われるなんてチョット皮肉ですね。

●マンガ「中国医学の歴史」って本にも華佗は、神農.黄帝.扁鵲.張仲景などの名医とともに主役を張ってます。

漢方薬や鍼灸の歴史がわかり易く載ってます。








仙術を使うのは左慈、医術のほうは華佗です。



まあどっちも「後漢書」方仙伝に載ってる人物ですが・・・。後漢書が書かれた南北朝時代は、長い戦乱で「桃源郷(ユートピア)」に対する憧れが強かったんですね。汚れた俗世から抜け出て、仙界に遊びたい・・・という。陶淵明が「桃下源記」を書いたのもこの頃です。

ですから、他の正史には見られない、非常識な伝説的人物の伝記が載っていて、小説「三国演義」でも、面白いので使われているんです。



華佗は世界で初めて、「麻酔を使った外科手術」を行なった医者といわれています。

麻酔で眠らせておいてから、開腹し、病気になった臓器を切除したり、薬で洗ったりした・・・と記録されています。(このほか、虫下しを飲ませたら、とんでもなく長い虫が出て来て、華佗の家にはそういう虫の干からびたのが何匹も吊ってあった、などという気色の悪い話も載っています)

華佗は曹操のかかり付け医だったのですが、「曹操が自分を医者としか認めてくれない」ことに腹を立て、曹操の呼び出しを無視して、曹操に処刑されたということです。華佗は士大夫として、政治で活躍したい、という希望があったんですね。

「演義」では、周泰の手術をしたり、関羽のひじを治したりしていますが、これらはフィクションです。

「方仙伝」の人物(スーパー占い師・管路もそうですが)は、あんまり怪しくて実在を余り論じられていません。



ただ、江戸時代の華岡青洲が麻酔手術を目指したのは、「今から2000年も前の華佗が、すでに成功してるじゃないか」と言うきっかけであったそうです。

華佗が処刑された後、弟子たちは世に隠れて、「針の名人」ハンアくらいしか名を知られていないのです。







華佗と左慈が混同しています。

前半の記述の瞬間移動やかく乱は左慈のことです。

医術に関しては華佗のことになります。

(*´ ω`) 三国志の赤壁の戦いで、本当の史実では曹操軍100万VS呉蜀連合軍10万だっ...

(*´ ω`) 三国志の赤壁の戦いで、本当の史実では曹操軍100万VS呉蜀連合軍10万だったのですか?







2008年公開予定の映画「赤壁」(Battle of red Cliff)では、

曹操軍20万対孫権、劉備連合5万の設定になっているようです。



80万対3万との説もありますし、曹操軍の4分の1程度とも言われていますが、

孫権、劉備連合が3万程度との説が有力なようです。

三国志の虎豹騎の初代隊長って誰ですか? できれば 曹純・曹操・曹休・曹真の隊長...

三国志の虎豹騎の初代隊長って誰ですか?

できれば

曹純・曹操・曹休・曹真の隊長になった順番も教えてください。







曹純・曹操・曹休・曹真の順番です。(ウィキペディア参照)

初代は曹純になります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E8%B1%B9%E9%A8%8E

三国志大戦3のデッキ診断お願いします。 初心者なので魏の騎単が使えません。なの...

三国志大戦3のデッキ診断お願いします。



初心者なので魏の騎単が使えません。なので自分なりにデッキ作ってみました。

SR曹操

Rホウトク

UC于禁

SR張春華(槍)


C李典



GSR司馬懿



です。



改善点や立ち回り方などアドバイスをいただけると光栄です。









別に何がよくないってことはないですが、張春華はこだわりじゃないならUC荀イクの方がいいです。あとは求心なら騎馬が多い方がオススメです。李典→楽進など。もしくは于禁→曹仁が安定すると思います。

城内突撃やローテーションでの守りを確実なものにし、無茶な攻めなどしていないかが重要です。それさえ徹底すればデッキは何でも対応できるようになりますよ。








UCウ禁→C郭ワイにして、SR張春華→UCジュンイクにすればよいかと。

正直、ウ禁程度の伏兵では期待できないので、

この際郭ワイにしてダブル反計型にしてしまいましょう。



求心に関しては、騎馬よりも槍が居た方が実は安定します。

大徳などの号令は、反計を意識させて先掛けさせて一旦引き、

時間差で求心すればよいです。

相手が深く切り込んできた時は、美味しく反計してあげましょう。

本当にどうしようもない時は、駆虎呑狼で対処してください。



まぁ、本当は神速などを入れた方が、騎馬デッキは一番安定するのですが・・・。

それほど、このゲームにとって移動速度は重要な物ですので。

三国志について、質問です

三国志について、質問です

赤壁の戦いで、諸葛孔明の策により、曹操の軍から約10万本の矢を、奪ったことって本当ですか?

後、諸葛孔明が風向きを変えたって、本当ですか?

知ってる方は、教えてください。







10万本の矢と風向きを変えたのは小説の創作です。



矢の元ネタは孫権で、ある日船で偵察に出たところ魏軍に片舷を

矢で射掛けられ、その矢の重みで船が傾きそうになったので向きを

変えて反対側にも同じように射掛けさせてバランスを取った、と言う

エピソードから来たものですね。



風向きは変えていませんし、知っていたと言う話もありません。彼の

超人的な活躍や、天才的な先読みはほとんど全て創作です。








三国志演義は創作が多いですが、10万本の矢や「空城の計」の話は創作の典型的な事例です。(武将による一騎打ちの話も殆どが創作みたいです)



既に他の回答者さんから解説がありましたが、この話は孫権が乗っていた船が片方の面にばかり矢を受けて転覆しそうになったために慌てて向きを変えさせてバランスをとった話をヒントにしたようです。



諸葛孔明は赤壁では軍事に関しては殆ど仕事をしていないようです(呉との同盟以外は)。



下記のサイトで詳しい事実が詳細に解説されていますので参考までに読んでみてはいかがでしょうか。



三国志の現実>三国志の嘘>十万本の矢

http://www.geocities.jp/fghi6789/gunji.html#senbonnoya







まぁ、本当ですかね。

諸葛亮の策で、霧の日に、人ぐらいの大きさのワラ人形をたくさん積んだ小舟を何艘も出して、兵士に大声を出させて、曹操の軍に弓を打たせ、ワラ人形に刺させるように、仕組み、刺さった矢を貰ったらしいです。それで、1日で10万の矢を手に入れたらしいです。



風は東南の風が吹く日に合わせて、儀式みたいな事をして、自分がやったかに見せただけです。



説明が下手ですいません。







10万本の矢の話は添付のURLの私の回答を見て頂くとして…。

http://chie.mobile.yahoo.co.jp/p/chie/qa/view?qid=1049448045



元末から明初の時代(西暦1400年頃)に成立したとされる小説『三国志(通俗)演義』には、赤壁の戦いで孔明が曹操軍から10万本の矢を奪う話も、火攻めの前に東南の風を吹かせる話も載っています。

ですがまあ、あくまで小説であって歴史事実ではありませんね(^_^;



西暦290年頃に完成したとされる、陳寿という人物が編纂した歴史書『三國志』には、赤壁の戦いにおいてそういった話は一切出てきません。ていうかむしろ、孔明はじめ劉備の陣営は誰一人戦闘参加してなかったりします。



以下、歴史書『三國志』の記述に従って書きますね。



劉備は長坂で曹操軍の追撃を受けて江陵への退却を諦め、船で夏口に向かい、孫権配下の魯粛の手引きで孫権と同盟する事に成功します。

(この時の使者は諸葛亮が務めています)

そして共同で曹操に立ち向かうのですが、周瑜が率いてきた軍勢はわずかに3万。これを見た劉備は不安になり、2000の軍勢とともに後方に待機して様子を伺う事にしました。

(形としては後詰めの遊軍です)



すると、周瑜は見事に3万の軍勢で自称80万、実質十数万の曹操軍を火攻めで破ってしまったのです。



すかさず劉備はその追撃戦闘に加わります。周瑜とともに荊州の南郡まで進撃し、曹操の後詰めとして南郡の襄陽にいた曹仁を囲みます。

しかし、周瑜が曹仁と1年にもわたる激戦を繰り広げている間に、いつの間にやら劉備軍は南郡を離れ、荊州南部の長沙・桂陽・零陵・武陵を次々と攻略してしまいます。



…ま、そんな感じで、史実では孔明も劉備も赤壁ではなんにも活躍していないのです。







ああそれは別の人が別の時にやったとされる話をまるっきり付け替えてオーバーに脚色したものです。

もちろん天気の話は創作だし、奪ったとされる矢の数も1ケタは違うでしょう。







諸葛亮は、赤壁の戦いにおいてその場にはいなっ方はず。



風向きの件、まったく諸葛亮は関与してません。



十万本の矢についても、かなり怪しい、所詮は三国志演義(羅漢中)の世界ではないでしょうか?



彼は、そんな鬼謀を得意とする軍師ではないとおもわれる。







奪ってないよ。人形に撃ってきたのを集めただけです。地元の地理と天候や天文学を勉強してただけです。

三国志大戦3で新しいデッキ作ってみました! まだ始めて1ヶ月位で技術わ無いんで...

三国志大戦3で新しいデッキ作ってみました!

まだ始めて1ヶ月位で技術わ無いんですが…

曹操(求心)

夏侯淵(乱れ撃ち)

筍攸(大水計)

陳泰(若き血)

劉曄(看破)


軍師わ陳羣です。

アドバイスお願いします!







技術が無いのに騎兵は危険だよ。

槍兵を入れてみよう。

コスト2

R張コウ、UCホウ徳

コスト1.5

UC于禁、C郭淮

コスト1

C蔡帽、UC荀イクSR張春香








デッキは別に悪くないです。

ただ初心者には難しいですね。

求心と大水計の使い分け、看破のプレッシャーなどを駆使する必要があります。

あと陳泰はいらないです。これは超絶系計略が入ってるときに入れます。

なので少し変えてみると、



SR曹操

R張コウ

UC荀攸

C劉曄

C李典

GC陳羣



あまり騎兵が多いと突撃などのスキルが必要なので騎兵を減らしました。

ダブル反計でプレッシャーを与えつつ、水計か求心で殲滅します。

当然、張コウは魏武で上げた状態で乱戦させ、騎兵と弓兵で援護します。

軍師は再起がほとんど。

でも始めたばかりなら魏じゃなくて蜀か呉を使った方がいいと思います。







はじめから魏軍はキツイかと思います。

魏軍については、騎兵のスキルがないとほぼ勝てないので・・・



最初は蜀軍か呉軍をおすすめします。



各勢力については下記の通りです。



蜀軍:初心者向け(兵種のバランスが良い、スペックが良い)

呉軍:初心者または中級者向け(弓兵のスペックはよいがその他は微妙)

魏軍:中級者または上級者向け(騎兵&弓兵が強力、騎兵スキルがないとほぼ勝てない)

群雄:上級者向け(高武力がほとんど騎兵のため、魏軍以上に騎馬スキルが必要)

漢軍:上級者向け(漢軍自体の最高武力が低いため難しい)

三国志大戦3でSR劉備(大徳)・魏延(大車輪戦法)・厳顔(墳激戦法)・趙雲(人...

三国志大戦3でSR劉備(大徳)・魏延(大車輪戦法)・厳顔(墳激戦法)・趙雲(人馬一体)と曹操(覇者の求心)・司馬炎・程イク・楽進・郭嘉(4・9)この二つのデッキの有利な点と悪い点を教えて下さい。









大徳で4枚かつ人馬はいらないです。せめて5枚大徳に。どんなカードを入れるべきかはウィキを見て下さい。

覇者求はカクカをヨウコまたはUCソウジンを。カクカを使いたいなら全馬にした方がいいです。

程イクが選択肢に入らないのでUC筍イクか丁夫人に。司馬炎も変えるならトウガイやホウトクに。この枠に弓はキツイ。

三国志大戦3の質問です。 少し前に忠義対策を考えて書いた物の求心デッキSR曹操SR...

三国志大戦3の質問です。

少し前に忠義対策を考えて書いた物の求心デッキSR曹操SR王異R張郃UC楽進C李典軍師司馬イ

この求心デッキで忠義にどう対処すればいいかまだわかりません。誰か対処方法を教えてください。







SR王異



これ一枚で十分

三国志大戦3のデッキ診断お願いします。漢の決起デッキです。 SR皇甫嵩 UC顔良 R...

三国志大戦3のデッキ診断お願いします。漢の決起デッキです。

SR皇甫嵩

UC顔良

R劉備

R曹操

UC皇甫酈

です。いつの間にかカードが集まっていたので作ってみました。

対戦する前にちょっと診断してもらいたいです。

お願いします。







デッキを見た限り騎兵が得意みたいですね。

だったらR孫堅とかUC劉虞をいれてみては。

弓兵はSR献帝がつかえますよ。

でもこのデッキはこれはこれでいいですね。

裏の計略として国力3で謀略なんて結構強いですから。

ただ決起ですから序盤に注意してくださいね。

号令喰らったらおわりですから。








決起は2、1.5、1.5、1.5、1.5のコスト配分が安定しますよ



皇甫嵩、献帝、劉備、孫堅、劉虞、奥義増援でよろしいかと





士気管理をしっかりしましょう

三国志か演技、長坂の戦いについて質問です

三国志か演技、長坂の戦いについて質問です

三国志で曹操が荊州中央部(南郡など)を占拠し、

そこから逃げる劉備と追う曹操。

赤壁につながるクライマックスの序章、長坂の戦いについてすごく疑問があります。



劉備軍には曹操の支配を嫌う百万近い(数はともかく大勢の)民が付き従っている事になっています。

張飛が一本橋で曹操軍を足止めしたのも、その大勢の民を避難させるため、だったと思うんですが、

張飛や趙雲の活躍が語られ、劉備がなんとか長江を渡って曹操軍の追撃をひとまず振り切った後、

演技は孫権軍に舞台が移り、赤壁へと話が転換していきます。



赤壁で大敗を喫した曹操軍を劉備軍は待ち受けて苦しめるわけなんですが、

あれ?じゃあつき従っていた大勢の民はどこへ行ってしまったの?って感じです。



張飛や趙雲の活躍の辺りを最後に民が語られなくなるんですが、

彼らはどこへ行ってしまったのでしょう?







劉備軍が連れて行った形跡がないので曹操軍によって

元の領地に戻されたか、またはどこかの開拓地にでも

連れて行かれたのではないでしょうか?

曹操も荊州を支配下に置くのにかつて徐州で行ったような

大量虐殺は行わないだろうし、人がいてこその領地ですから。

人心をつかむことを第一に考えていたはずです。








最初から劉備の民を連れていった理由はたとえ民を置いてもどうせ追いつかれるから民を使って紛れ込んで逃げるつもりだったみたでした







陳舜臣さんの三国志ですと、元々孔明は、10万の民と夏口まで行く気が無く、寧ろ利用しようと考えていたようです。



孔明は迫り来る曹操軍を前に、大勢の民で、劉備軍を隠して、上手く逃げようという手立てだったらしいです。

で、見事にひっかかり、曹操軍に残ったのは、民から逃げられたという信望の無さ、それと行き場の失った大勢の民でした。

つまり孔明は散々に民を使った後は、曹操に後始末を押し付けた感じですね。



結果、孔明も中々の策士だった。

民のその後、知らん。







少なくとも曹操の性格、戦略からだと屯田のためどこかへ連れて行かれるのではないでしょうか。

もしくは反乱を起こさせないためにバラバラに散らばされたのでは?







とりあえず詳しくは知らないけど、劉備軍が何万もの民をつれていましたが、そのうちの何人かは曹操軍に殺されたと思います。それで赤壁に舞台がうつり、孔明が同盟を申し込みにいくわけですが、その時に劉備軍の兵士は1万はいたはずです。城も無しで1万の兵力を持ってられる訳がない、それ以前に何も無しにどっかに逃げたとは考えられませんね。多分誰かが、劉備を受け入れてそこに呼び込んで資金とかも援助してたんでしょうね。多分、そこの県か州か知らないけど、そこに住まわせたと思います。

三国志の劉備についてです。疑問があります。194年頃に曹操が父親殺されて怒っ...

三国志の劉備についてです。疑問があります。194年頃に曹操が父親殺されて怒って徐州に攻め込んだ時なぜ劉備は和睦の道を選んだのでしょうか?それに使者が張飛というのはおかしいと思いませんか?

これは私の予想ですが劉備は和睦と見せかけて張飛に曹操暗殺を狙っていたのではないかと思います。もし本当に説得する気があれば劉備本人か関羽を使うと思います。間違っても張飛に任せないと思うのです。まとまる話もまとまらないと思います。その後呂布が曹操の本拠地を奪いとったから引き返したというのは予想外の事態であって、劉備側から見て始めから分かるものではありません。本当は密かにもし曹操が和睦の話に応じなければ劉備は張飛に暴れて曹操を殺してもかまわないと指示したのではないか。それならば緊急事態で劉備が自信満々に和睦を主張するのは納得できます。張飛はそれ以前に董卓にも襲いかかろうとした前科ありますし。止められてしましたが。となると圧倒優勢に見える曹操もその時は冷静さを欠いており、本拠地盗られるアクシデントが発生しなくても意外に曹操個人としては命が危なかったのではないでしょうか。赤壁みたいに大軍を率いた優勢の立場の曹操は意外に弱いですし、戦いは桶狭間みたいに大将の首をとれば勝ちなのですから。あくまで予想ですがなにか裏があるとしたらはっきりいって劉備玄徳恐ろしいと思います。







裏読みのしすぎだと思いますが、そういう考え方もできるのではないですか?

否定はしませんよ。





>劉備は和睦の道を選んだのでしょうか?



これははっきりしている。戦っても勝てないから。



>当は密かにもし曹操が和睦の話に応じなければ劉備は張飛に暴れて曹操を殺してもかまわないと指示したのではないか。



・・・で張飛はぶっ殺されて使い捨てだと?いわゆる鉄砲玉のチンピラ扱い?

曹操がいなくても後継者が劉備をひねりつぶせちゃいますから。しかもそうなると全然劉備に大義がないから、外からの援軍なんか期待ができませんね。








当時の劉備は平原の相で、徐州へはあくまで援軍に過ぎません。



曹操を撤退させるのが目的です。



もし曹操を討ち取ったところで、本軍は兗州に残っていて、簡単に奪えるとは考えなかったでしょう。



むしろ彼は早めに講和に持ち込み、平原に帰還したかったのが、当初の本心ではないでしょうか。

三国志の馬超と龐徳の関係

三国志の馬超と龐徳の関係

昔は馬超のことを若大将と慕っていた龐徳でしたが晩年曹操に降伏して魏の武将

になりました。馬超はそれをどう思ったのでしょう?複雑な気持ちだったのでしょうか?

漢中争奪戦で馬超と龐徳は一騎打ちはしなかったのでしょうか?







ホウ徳は漢中戦線には行かなかったのでは? 荊州戦線で関羽と戦って戦死してますし。



思うのですが、ホウ徳が歴史に名を残しただけで、蜀入りしたらしいホウ徳の従兄のホウ柔のほうが馬超と近い関係だったんじゃないでしょうか。

ホウ徳は于禁に比べて新参ながら忠義で正史に名を残しましたが、ホウ柔は名前しか伝わってませんが、蜀にいるんだからそんなところだと思います。



一ヶ所にとどまらないことで、一族の滅亡を防いだんでしょう。








横山光輝の演義を読むと、

馬超が、張魯の命で、劉備と対峙した時は病気で参戦出来ず、曹操が漢中へ来た時に大将となり闘うも罠にかかって、捕まり降伏してますね。

そして、劉備が漢中へ攻めたら、迎え撃つ曹操軍に居ましたよ。ただ、直接対決はなかったですね。

ちなみに私、三国志英傑伝というロールプレイングで、劉備対曹操@漢中で馬超と龐徳を対戦させたら、

口論してました・・・馬超の説得に応じなかったですね。

んで、馬超の気持ち・・・兄弟の仲を近いあったものでも、ささいなきっかけで、対立するってのは戦国の世ではよくあることです。







もちろん、いい気はしかなったとは思います。でも馬超も、父 馬騰の義兄弟・韓遂と仲たがいを起こし、曹操に敗北しました。「昨日までの同志や仲間が、明日には敵になってしまうこともある」みたいな経験もあり、ホウ徳のこともしかたのないことだと割り切れたかもしれませんね。

三国志において魏の国に許褚という猛将がいましたが、曹操の亡き後はどうなったの...

三国志において魏の国に許褚という猛将がいましたが、曹操の亡き後はどうなったのか、ご存じの方はいらっしゃいますか??







三国志日本語訳



魏志巻十八 李典・李通・臧霸・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温



許褚伝(関連部分)



太祖が崩ずると、許褚は号泣して血を吐いた。文帝(曹丕)が践祚すると万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、(文帝とは)非常に親密であった。はじめ許褚が率いて虎士になった者は征伐に従軍し、太祖はみな勇者であると考え、同じ日に部将に取り立て、そののち武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉は百人余りになり、みな剣客であった。明帝(曹叡)が即位すると、牟郷侯に進み、所領は七百戸、子に爵を賜って一人を関内侯とした。許褚は薨じ、壮侯と諡された。子の許儀が嗣いだ。許褚の兄許定も軍功によって振威将軍になって封ぜられ、王道巡回の虎賁を都督した。太和年間(二二七~二三三)、帝は許褚の忠孝を思い、詔を下して褒めたたえ、また許褚の子孫二人に関内侯の爵を賜った。許儀は鍾会に殺された。泰始年間(二六五~二七五)のはじめ、子の許綜が嗣いだ。



http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wei18-6;lang=Jp;opt...








曹叡の代に死去したそうです。

http://my3594.net/wiki/%E8%A8%B1%E8%A4%9A







曹丕・曹叡と仕え、たしか病死したはずです。

三国志に出てくる赤兎馬について

三国志に出てくる赤兎馬について

最初、トウタクからリョフへ贈呈されていますよね。

その後、カンウが愛馬として長く使っています。



普通の馬の寿命を考えると、活躍できる時間がより長くないでしょうか?



もしかして、複数の馬が居たのでしょうか?







関羽が曹操に呂布の赤兎馬を与えられたのは演義での創作ですね。



関羽は赤兎馬をもらったとき劉備の居場所がわからず仕方なく劉備の夫人と共に曹操に降っていました。

曹操としてはそのまま自分の部下になってくれることを望んで関羽に宝物などを送りましたがその宝物すべてを劉備の夫人に送り関羽は劉備への忠誠心が変わらないことを曹操にアピールしました。

次に曹操は関羽は体が大きく並の馬では数回乗っただけで乗りつぶしてしまうという情報を聞き、呂布の乗っていた名馬、赤兎を関羽にあげました。すると関羽「兄者(劉備)の居場所がわかったときまっさきに飛んでいける。」と劉備への忠誠心を語りつつ曹操に礼をいったといいます。



とこれらは演義での創作。

赤兎馬は歴史書である三国志正史の呂布の列伝(人物紹介のような物)にでてくる呂布の愛馬で人中の呂布、馬中の赤兎とかかれたところ以外記述がありません。

しかし、歴史書に名を残す馬などめったにないのでよっぽどの名馬だったのでしょう。

そんな有望な馬と神として信仰される関羽をひっかけたのではないでしょうか?

それに関羽の義に厚いところを強調するという理由もあると思います。








関羽が愛馬として「赤兎」を乗りこなしていた・・・というのは三国演義の創作、フィクションです。

創作を云々しても仕方がない。



ただ、この馬は正史「三国志」にも載っているという、実在のスゴイ馬ではあります。







(´・ω・`)まあ創作ですから。ありえない寿命ですな。

ただ馬は場合によっては62年生きた奴もいるそうですから(ギネス記録らしい)

全くありえない話でもないかもです。

馬の平均寿命は20~30くらいですが、戦場にかりだされてそんな長生きするか?といわれると・・・



汗血馬がモデルという話もありますがそうなのかはわかりません。

汗血馬というのはペルシャのほうの馬で、大宛の良馬といわれ絶賛されていた馬です。







赤兎馬は「汗血馬」と呼ばれる種類の馬ではないか、という説を聞いたことがあります。



これが真説であるならば、複数いたのでしょうね。

中国のずっと西方にいた馬ですから、中原(主に三国志の舞台となった平野部)では貴重な馬だったのでしょう。







はい、30年以上生きていたことになりますね。。。。

あくまで三国志演義の作者の設定と言うことです。

歴史に残る馬としては唐の太宗李世民の六駿が有名ですが、1頭の馬を使っていたのはせいぜい1,2年です。

関羽が曹操を逃がさなかったら? 三國志で一番有名な戦い「赤壁の戦い」。

関羽が曹操を逃がさなかったら?





三國志で一番有名な戦い「赤壁の戦い」。




この戦いで曹操が敗れて敗走している際、関羽が途中で待ち伏せていて、曹操は絶体絶命の危機に陥りますが、義人・関羽はかつての恩から曹操を見逃しますよね。



もしもこの時、関羽が曹操を見逃さなかったら。



さらに言うなら、かつて関羽が曹操に捕まった際、曹操が劉備のもとへ帰って行く関羽を逃がさなかったら。



もっと言うなら、待ち伏せていたのが義人・関羽ではなく他の武将だったら。



その後の歴史はどうなっていたと考えますか?





色々考えられますが、私は少なくとも天下三分の計は実現しなかったかな、と思います。





皆さんの考えを聞いてみたいです。



よろしくお願いします(^_^)





※ちなみに私は知恵袋初心者なので、知恵コインについてよくわからないですし、過去に同じ質問があったりしたらごめんなさい(>_<)











あくまでもフィクションなのですが,こういういい意味で「勝手」な想像は面白いですね。



私はこの場合,劉備の命運が先に尽きてしまうと思います。劉備は未だこの時点で確固たる地盤を築いておらず,曹操軍は中枢が壊滅してしまうと,当然積極的な対外政策はできなくなり,当面は荊州の軍事バランスが大きく孫権軍に傾くでしょう。そうなると,孫権は後方の不安を意に介することなく領土を拡大しようとし,荊州を一気に併吞しようとすると思います。当然劉備が脅威となり,邪魔になるはずなので,排除しようとするでしょう。劉備は,荊州の不安定な情勢に乗じて,あのような快挙を成せた訳で,孫権が圧倒的な力を持ってしまったら地盤を確立する前に追われてしまうかも知れません。兵力の差は歴然ですから。



「曹操の存在があったからこそ,劉備は英雄となれた」,のかも知れません。案外,魏と呉の天下二分になっていたかも。。。








まだ演義幻想にとらわれている凡愚がいるとは・・・なげかわしい・・・。いいですか、あなたがおそらく知っている三国志は「三国志演義」というデタラメ小説で本物の三国志とは内容がかけ離れています。どうせあなたは横山や吉川のでも読んだのでしょうがウィキか正史か本でもよんで調べてみなさい。そして本物の三国志を理解したら「蒼天航路」という漫画を読みなさい。これを読めばさらに深い三国志の世界を知ることができます。







曹操が関羽を逃がさなかったら…について想像します。関羽に対する曹操の気持ちは、日増しに強まり、それは恋慕の情と言えるほどになっていきました。劉備が生きていたことが分かると…なんと劉備暗殺を企てます。しかもそれが、曹操の仕業と分からぬよう、袁紹陣営を巧みに動かし、劉備にあらぬ疑いがかかるようにしむけていきました。優柔不断、疑心暗鬼と言われる袁紹はついにこの計略にはまり、劉備を処断してしまいました。やっと関羽を正式な配下にできたと浮かれる曹操。悲しみに暮れる関羽…。 つづく







そんなあなたも今すぐ「赤壁 関羽」で検索を。仰るとおりたくさん同じ質問があります。新たに質問するよりより多くの意見が見れますよ。コイン云々は気にせずに。そんなもん欲しさに回答する人はあまりいません。



とりあえず質問に答えます。フィクションの先を想像するのは難しいですが、あまり差はないかなと。曹操が死んでも国境の警備が著しく緩むほど軟弱な体制とも思えず、結局周瑜が江陵を陥落させるには時間がかかる。その間に劉備はやっぱり漁夫の利を狙う。だって地盤がないんだもん。手付かずなのは荊州南部4郡のみ。そこを狙わざるえない。まんま演義通りですね。

むしろ変わるのは孫権のほうかと。曹操が死んだらペテン師劉備の口添えもあって今が好機と合肥に大遠征。で、例のごとく負ける。ただ孫権は曹丕を外交で翻弄したあげく勝ったこともあるんで、案外合肥を抜いたりして。まぁそれで天下がどうにかなるとも思えないけど。







えーと、根本的な部分で多少の誤解があると思いますので、まずそこをご説明しますね。



赤壁で敗れて逃げる曹操を関羽が華容道で待ち伏せし、結局逃がしちゃう話。あれは実はフィクションなんです(^_^;

日本で一般的に知られている三国志は、『三国志演義』という中国の明の時代(1500年頃)に書かれた小説です。史実七分虚構三分と言われ、全体の流れは史実通りですが細かい部分に小説的創作が施されています。

つまり、赤壁で曹操が敗れたのは史実ですが、それを関羽が待ち伏せしたというのは創作なんですね。



ちなみに、関羽が徐州で曹操に投降したのも、その後に劉備の居場所を見つけて帰っていったのも史実です。曹操はこれを「主君に忠義を貫く立派な姿だから追ってはならない」と言って、気持ちよく見送ります。

『三国志演義』のフィクションはその後。五関を突破して六将を斬ったり夏侯惇が追いかけてきたりといった辺りが創作になります。



赤壁の戦いでは、実は劉備達は後方で何もしませんでした。曹操は周瑜ら呉軍が単独で勝っちゃったんです(^_^;

で、撤退する曹操軍を周瑜は劉備らと共に追撃しますが、曹操が逃げる先は曹操軍が制圧している荊州なので伏兵は置けませんでした。

曹操は曹仁や徐晃らに後を任せて真っ直ぐ北上します。周瑜らは曹仁たちの籠る江陵を攻撃し、その間に劉備や関羽は荊州南部を制圧に向かうのです。



質問者さんは三国志がお好きなようですが、演義と正史の違いを紹介した本もたくさん出ています。そういった本もお読みになれば、演義と正史の違いも分かって、より三国志が楽しくなると思いますよ☆









そこらへん、「三国志演義」で創作されたエピソードなので、「その後の三国志演義」をベースに考えてみますね。



・赤壁で曹操が関羽に殺される

一緒にいた程立や、後から来た張遼、徐晃あたりも殺されるだろーなと思われるので、魏の打撃が巨大なものに。

このころ、曹植はまだ後継者争いの有力候補という立場ではないから、後継争いはなく、曹丕の下で一枚岩。

漢側人材の粛清とそれに続く動乱で、少なくとも外征はできない状態が続きそう。



劉備方は、荊州南部を抑えた後は、当然、蜀を目指すことになりますが、益州への曹操・張魯からの圧力が

緩和されるので、お話通りに蜀の内部に招かれてからの進軍ではなく、江陵・永安辺りを経由しての攻略。

すごく時間かかりそう(演義のスーパー孔明ならどうにかするかもしれないけど)。



孫権方は、荊州中部に加えて、曹操死後の動揺で混乱する北部も手中に。

このまま北伐しそうな雰囲気もありますが、実際、平野での戦いに不慣れで騎馬隊を持たない呉が

どんだけ中原で戦えるか、正直、微妙。むしろ、孫権の思考傾向から考えると、荊州南部を奪って

後顧の憂いを無くしたがるんじゃないでしょうか。

そして、蜀攻略に手間取る劉備方に戦を仕掛けるくらいの事はしてきそう。



結果として、南呉と北魏の二大勢力による南北朝時代が出現したんじゃないでしょうかね。



・・・あれ?関羽って、実は思った以上に蜀の救世主じゃね?

三国志☆知ってる方多いと思います。 『チョウセン』(女)(漢字が分かりませんが...

三国志☆知ってる方多いと思います。

『チョウセン』(女)(漢字が分かりませんが)って、実際は、存在しなかったんですか??

分かる方は教えて下さい(-.-)y-~~~







三国志演義にのみ登場する架空の人物とされます。



貂蝉(ちょうせん)は、三国志演義に登場する絶世の美女です。

その美貌は春秋の西施・前漢の王昭君・唐の楊貴妃と並び称され、

「中国四大美女」といわれます。

ただし、これは「演義」でのみ登場する架空の人物で、

正史に呂布が「董卓の侍女」と密通したという記述があり、

貂蝉のモデルとされます。



貂蝉のパトロン「王允」が、「美女連環の計」とは、

貂蝉、董卓、呂布の三角関係(輪を連ねて)を作って、

董卓と呂布を仲たがいにさせようとした「美女連環の計」に登場します。



貂蝉は呂布の死後、曹操に捕らえられ、許都へ送られます。

当時曹操と劉備は昵懇の間柄だったため、

行動を共にする関羽は、

呂布の妻であった貂蝉を何度となく娶りたいと曹操に申し出ました。

一旦は、曹操はそれを許して貂蝉は関羽の妻になったとの説があります。

(清廉潔白な関羽には似つかわしくない説ですね。)



また、何度も曹操に申し出たので、

気になった曹操が貂蝉を見てみると美人であったので、曹操が関羽に渡さず、

自分の手元に置いたという説もあります。

(人妻好きな曹操らしいエピソードですね。)



実は華佗(三国時代の名医)が、

首を西施(四大美女の一人BC460頃の呉の美女)のものと取替え、

肝を荊軻(始皇帝暗殺未遂の刺客BC220頃)のものと、

取り替えたというフランケンシュタイン的な話もあります。



それ以外にも、董卓が呂布に殺された後、

自ら命を絶つと言った話もあり、様々な人生を作られた女性です。



三国志演義のオープニングを飾る、大輪の棘の刺を持つ花が「貂蝉」です。








少なくとも実在していたことを証明するものは何もありません。



演義の中だけの存在です。



「美人の計」に使えるような若くて美しい女性はたくさんいるでしょうから、その中の一人がそうだったかもしれませんし、全くの作り話であったかもしれません。

三国志の曹操。

三国志の曹操。

乱世のかんゆうと言われていますが、具体的にはどういう意味ですか?



異端児みたいな感じですか?







「清平の奸賊、乱世の奸雄」または「治世の能臣、乱世の奸雄」という許劭の評からきているものなのですが、意味は人によって捉え方が違うものだと思います。

例えば劉備や董卓などは正史では色んな人物に「梟雄」という表現をよくされていますが、これは「横暴で野心的な人物・智勇に傑出した人物」という意味だとか。これも捉え方によっては奸雄と呼べるかもしれません。

一方、奸賊は「悪賢く邪な人物」という意味ですが、曹操はそんな小物ではありません。悪知恵が働くというより狡猾、抜け目ないという表現がしっくりきます。

たぶん梟雄と奸賊をひっくるめて「奸雄」ではないかな。「野心的で狡猾だが、智勇がずば抜けた英雄」という感じで私は理解しています。少なくとも平和な時代でも能臣で満足する人物ではないでしょう。








正確には

治世の能臣、乱世の奸雄

ですね。



平和な世の中なら有能な家臣だけど

戦国時代なら野心のある英雄



といった意味です。

後者を日本で言うと

斉藤道三だとか松永久秀だとか織田信長だとかそういった類

の人物ってことですね。

三國志の登場人物の中でなぜ関羽だけが今でも神様になって中華街などでまつられて...

三國志の登場人物の中でなぜ関羽だけが今でも神様になって中華街などでまつられているのでしょうか?
日本では孔明のほうが人気あるように思いますが中国人の中では関羽のほうが崇拝者が多いのですか?







関羽は、主君の行き先が見つかれば、そこに参りますとはっきり曹操にことわって「漢」に使えました。曹操から送られた物や美女は一切収めませんでした。華容道で曹操に借りを返すように言われると、逃がしてやります。「義理堅い」の権化みたいなものです。だから、商売の神様になったんです。強い意志を持ち、悪を払ってくれる頼もしい神様になったんです。孔明は読書人です。中国では読書人は商売人じゃないんです。儒家は商売しないのです(厳密にはそんなことない)。関羽は岩塩の商人だったとも言われています。実は、劉備(蓆売り)、張飛(肉屋)と共に商売人同士なんです。庶民には孔明より近しい感じがするのです。商売人は評価されなかった時代に、商売人でも信義を重んじ、世の中を良くしていこうと心に誓って実行した人達なんです。公孫瓚も義兄弟が居ました。二人とも商人でした。これらは異端なんです。「清流」と言われる読書人と付き合わないといけなかった時代です。漢朝末期はちょうど有名校出身のエリートと皇帝の親族やおつきの人との対立でおかしくなった。

そんな中、庶民(商人)、見下げられる庶民が、他人同士なのに、一致団結して正論を吐き、国を正すという物語なんです。

だから、関羽が拝まれるのです。張飛は部下に厳しいし、劉備はシンパシイを感じるものの皇帝様ですからちょっと遠い感じになっちゃったみたいな。








ひょっとしてご存じないかも知れないのでお教えしますと、左上の窓に単語を打ち込めば、検索という作業が行えますよ。

三国志の人気について。聞いた話しによると本場中国では、孔明、関羽、曹操の人気...

三国志の人気について。聞いた話しによると本場中国では、孔明、関羽、曹操の人気が高いそうです。日本ではどうなっているのでしょうか?
また、荊州を失わせた大馬鹿野郎や最初は関羽が好きだったけど、今は・・・!等の声をちらほら聞くので、20年以上も関羽一筋という奴は、珍しいのか?もご意見下さい。宜しくお願いします。







三国志について、基本的に日本では三国志は三国志演義のことを

指すと思いますが、その中では、劉備の諸将が善玉で曹操が悪玉

で語られているので、劉備が人気がありその武将での五虎将軍と

孔明が人気が高いと思います。その中でも、義を重んじる関羽が

人気が高い方になると思います。孔明、関羽、趙雲あたりが人気

があるように思います。

関羽については、義を重んじ、部下思いの文武両道の優秀な

武将として語られて、中国では一番人気かと思います。

ただ、関羽は他の武将などを軽んじてうまく付き合えないなど

の欠点も語られそれが理由で荊州を失ったとされたところもあって

評価が下がっているところがあるのではないかと思います。

まあ、欠点の無い武将はいないと思うので、関羽一筋の人が

珍しいとは思いません。

私は名前の通り趙雲子龍が好きですが、その趙雲子龍の欠点

もいろいろと語らえていることもあります。

三国志(三國志)のドラマについてお聞きしたいことがあります。 Three Kingdoms...

三国志(三國志)のドラマについてお聞きしたいことがあります。



Three Kingdoms(出演チェン・ジェンビン)と三国志完全版(出演ソン・ヤンジン)の2つでは、
どちらの方が初心者にはお薦めですか?また、ドラマチックな方はどちらでしょうか?



両方を御覧になられた方、感想や内容の違いなど何でもよいので教えていただけると助かります。



それではよろしくお願い致します。







Three Kingdoms(出演チェン・ジェンビン 以下3K)のほうが、とっつきやすいと思います。完全版(90年代放映ですよね?)は黄巾の乱など、冒頭部分は、駆け引きも少なく、著名な登場人物もまだ世に出ておらず、伝説的な要素も多く盛り上がりに欠ける部分が長いため、初心者にはつかれます。また、絵的にも20年近くの中国の映像なので、ちゃちな鎧など違和感あると思います。その点、3Kは、曹操登場から群雄の集いまで一気に見せてくれます。また、この劉備が、いいのです。従来の志を持ち茫洋としたイメージをたもちつつ、絶妙なしたたかの要素も見せ、一見の価値あり。筋的にも伝説に合理性を持たせる工夫があります。

その場合、三国志演義では 曹操、孫権、劉備は

その場合、三国志演義では

曹操、孫権、劉備は

どのような扱いになると思いますか?



この質問の続きです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1328741843



やはり、曹操が悪玉になるのでしょうか?

ただし、このケースだと三国志は成立しないでしょう。







なぜ三国志が劉備が主役になったかというと、三国を受けた「(西)晋」が内乱によって崩壊し、そこに異民族がなだれ込んだことで、異民族に中原を制圧される五胡十六国→南北朝時代の時代に入ったため、江南の地に押し込まれた漢民族が、正当な王朝は魏ではなく、「蜀漢」だと、意地を張ったことが原点です。

よって、曹操対孫権の図式になり、曹操が中国統一を行うとすれば、やはり「魏」の正当性は強化されるので、劉備は悲劇の群雄の一人になってしまいます(孫権にまんまと暗殺されたことになるので)。私のシナリオで進むなら、曹操が唯一認めたライバルという扱いになり、曹操がその死を聞いて涙するくらいの演出がされるでしょう。

また、史実では歴戦の指揮官として各地を転戦しているので、この部分が強化され、これだけ有能な用兵家だったからこそ、曹操がライバル視し、恐れたのだという人物像になるのではないかと思います。

で、このことを聞いた関羽・張飛は、「敵の敵は友」と、曹操陣営に駆け込み、荊州南部から周瑜の後背をつく、さらには新たに曹操が関羽・張飛陣営に参謀兼軍監として覇権した徐庶(=劉備の死を悼む気持ちが彼を動かします)が、交州方面から呉の背後、また山越などに内乱の策略を施します。

呉は、この対応策として魯粛を後詰にするしかありません。

ここから、孫権はかなりの暴君扱いされると思われます。愚かな孫権を支えているのが、兄が残してくれた周瑜と、大戦略家の魯粛の2人ですが、悲劇的にこの2人は相次いで病死します。

対魏戦線を維持できるのは呂蒙しかいません。また陸遜が呉の政界に出てくるも早くなるでしょう。

しかし、曹操による呉の包囲はじりじりち縮まっていきます。そこで、曹操が再び降伏勧告を迫ってきた場合、どうなるでしょうか?

周瑜も魯粛はもちろん、程普、黄蓋といった強硬派はすでに死んでいます。呂蒙は前線の指揮官で、政治的な権限は弱いので、張昭を代表とする降伏派が主流になります。最後の頼みは陸遜ですが、陸遜が呉を支えるのは江南を代表とする名家の中心人物として、安定した政権になりつつあった呉を支持したのであって、敗色濃厚な呉ではありません。下手をすると張昭は、降伏派の旗頭として陸遜を推す可能性すらあります。

孫権はクーデターによって討たれることも考えられます。

降伏派が推し立てた陸遜に反発し、軍権を掌握する呂蒙は、孫権の仇を討つことを決意しますが、このときすでに陸遜は魏に対し降伏を申し出ています。

呂蒙が孫権に殉じた最後の名将として描かれ、魏の大軍を迎え討ち、華々しく散ることになります。

曹操は、ライバル劉備を裏切り、また主君孫権をも殺した背信の国である呉を許さず、陸遜や張昭を処刑し、呉を完全併吞します。ここに中国は統一されます。

しかし、ここで曹操の命脈が尽き、帝位の禅譲は次の世代に受け継がれます。が・・お家騒動が起き・・・などと、架空の物語は晋建国につながっていくのでは・・・








やはりそうなったら、まず劉備、また蜀贔屓の三国志演義は作られないでしょう。三国時代ですらないしね。やはり劉備がいたからこそ三国時代は面白いのであって曹操や孫権では少し押しが足りないと思います。二国時代になると思います。そうなると孫権が主役になると思います。

三国志の質問

三国志の質問

三国志の質問。(演義目線で)

1 曹操が劉表と戦ったことはありますよね。その戦いの詳細を教えてください



何年

曹操軍大将 劉表軍大将

(仮)曹仁 (仮)劉表

兵力(仮)三万 兵力(仮)10万

参戦武将 参戦武将

仮 李典 仮 蒯越

仮 夏侯淵 仮 加藤茶

仮 程昱

勝利 劉表軍 戦のながれ

また曹操と劉表の通算成績も教えてもらえればうれしいです







演義で曹操と劉表は一度戦っています。



第十七回~第十八回

建安3年(198)



曹操軍(不明※少なくとも5万以上)

大将:曹操

従軍:郭嘉、曹洪、許褚、呂虔、于禁、李通



劉表軍(不明※少なくとも一万以上)

大将:劉表

従軍:蒯良



張繍、賈詡、雷叙、張先



経過

まず曹操が袁術討伐に出てる隙に張繍が劉表の支援で南陽郡に侵攻、守将の曹洪を追い出して宛を再占領します。袁術討伐を終えた曹操はすぐさま宛へ遠征し劉表が救援に来る前に張繍を叩こうとします。ですが張繍の軍師賈詡は敵が勝負を急ぐだろうと見抜き、空城の計を用いて曹操軍5万人を討ち取る大勝を得ます。さらに劉表の救援軍も到着し、ここで初めて劉表と曹操が対峙します。

ところが曹操の元に河北の袁紹が許都攻略を計画してるとの急報が入り、曹操はとうとうろくな戦果を上げずに撤退を決断します。撤退する曹操軍を劉表と張繍が追撃するも殿軍の奮戦により撃退されます。これに萎縮した劉表・張繍はここらが潮時と言いだすも、賈詡が説得し再び追撃。二度も追撃してくるとは思わなかった曹操軍は不意を衝かれて大敗します。あわや壊滅という所で汝南の豪族李通が私兵を率いて来援した為、どうにか逃げ切ることには成功しました。



結果

両軍共に大きな被害を出しており痛み分けといえます。ですが大軍を率いて遠征したにもかかわらず何の戦果も得られず、また劉表軍は追撃時の一敗のみに対し、曹操は緒戦と撤退戦の二敗と負け越しているので、劉表&張繍連合の辛勝だと思います。








曹操と劉表が直接戦った事はありません。

208年に曹操が荊州を攻めた際は、7月に曹操が南下の号令を下し、その月のうちに劉表が死去して次男の劉ソウ[王宗]が後を継ぎ、そのまま戦わずに恭順の意を示したので戦闘に至っていません。



劉表は基本的に専守防衛を旨としていて、積極的に戦闘行動に及んでいたのは劉焉・劉璋親子に対してだけです。

対曹操は、張繍を支援して代理戦争的な状態にならなりました。同様に黄祖を支援して孫呉とも戦わせています。



交州方面では呉巨を蒼梧郡太守に任じてその支援をするのみで、呉巨は交州の士燮や孫権と争っています。

呉巨は劉表が死去して荊州が曹操や孫権の手に渡っても、しばらくは独自の勢力を保持していましたが、結局は孫権配下の呂岱に滅ぼされています。



【追記】

おっと、演義目線で…とあるのを見落として、うっかり正史目線で回答してしまいました(笑)。

geregere998さんが詳細に回答して下さってますね。BAにふさわしいご回答だと思います。

三国志の質問です。 曹氏の「魏」が司馬氏の「晋」に滅ぼされた最大の原因は曹家が...

三国志の質問です。

曹氏の「魏」が司馬氏の「晋」に滅ぼされた最大の原因は曹家がお家騒動を恐れて親族たちに軍の指揮権を渡さなかったかため、司馬氏の侵攻を容易なものにしてしまったからなんでしょうか。

それとも他の要因の方が大きいと思いますか。







曹家を支える一族構成員・有力姻戚家・累代家臣団の層の稀薄さが曹家没落に繋った、と思います。



官渡合戦で袁紹は、「曹操の父親曹嵩は、氏素姓も不明な乞食の子供」と言う内容を含む檄文を発します。後に曹操は、檄文の作者陳琳に「父祖の事を悪様に書く必要は無いだろう」と言いますが、檄文の内容を否定してはいません。故に曹嵩は、曹家以外から来た異姓養子の可能性が高いです。

曹操の祖父曹騰は、四人兄弟の末子です。曹騰は、家族制度の禁止事項・異姓不養(異姓男子の養子禁止)を鑑み、兄達の男子を養子にする方が自然ですが、態々異姓の曹嵩を養子にします。此れは、曹騰が出世する以前に、曹仁の祖父曹褒を除く他兄弟が早逝し、曹家の男子が少なかった為の非常手段でしょう。其れ程、一族構成員の層が稀薄だった訳です。

曹操は、恩義有る秦邵の遺児を引取り、其の遺児に曹姓を与えて養育します。後の曹眞[=曹真]です。異姓養子で一族構成員を増やす曹操の策は、曹眞・曹爽親子が其々、文帝曹丕・明帝曹叡の「顧命(皇帝が臨終時に遺言を伝えて後事を託す)の臣」に選ばれた事で実を結びます。が、本来異姓の曹眞・曹爽親子が曹家代表だった事が、一族構成員の層の稀薄さを物語る良き証拠、とも言えます。此の状態で曹家を守護する事は至難です。



曹嵩・曹操親子は、共に丁家の女性を妻にします。丁夫人二人と沛郡出身で曹操と同郷の丁儀・丁ヨク[ヨク=マダレ+異]兄弟は同族の可能性が有り、更に曹操の長女清河公主が丁儀と結婚する予定だった事を考慮すると、曹家・丁家は婚姻関係を幾度も結ぶ親密な間柄、と推察出来ます。

曹家が危機の際に救援する筈の姻戚家の丁家は、曹丕が弱体化させます。曹植を支持した丁儀・丁ヨク兄弟を誅殺したのです。が、此れは、曹昂戦死の件で曹操の正室丁夫人が離縁され、後に正室に成った実母武宣卞皇后を立てる目的で、曹丕が丁家一族の排斥に動いた場合も有り得ます。結果、曹嵩・曹操親子が構築した丁家との婚姻関係は、曹丕の代で途切れます。

曹爽の参謀に沛郡出身の丁謐と言う人物が居ます。丁謐も同族だとして、曹爽・司馬懿が対立した際、彼に曹家の有力姻戚家としての発言力が有れば、曹家を守護出来たかも知れません。



晋帝国を建国した司馬家は、一族構成員の強化を進めます。其処に曹家没落の原因が有る、と思った為でしょう。此の司馬家没落の予防策が「八王の乱」を引起す皮肉な結果を生みます。








■曹丕にしろ、曹叡にしろ英邁な人物と言われていますが、その統治能力を発揮しないうちに若死にしています。

■他の長生きしている中国歴代王朝は2代目、もしくは3代目が優秀、しかも輔弼の臣にも恵まれています。漢なら劉邦、呂后、文帝、景帝、武帝。唐なら李淵、李世民、則天武后、玄宗。宋なら趙匡胤、趙光義兄弟、真宗。明なら洪武帝、永楽帝、洪熙帝、宣徳帝。清ならヌルハチ、ホンタイジ、順治帝、康熙帝、雍正帝、乾隆帝。

■曹家の場合、曹操が自ら軍勢を率いて戦います。そうでない場合は夏侯淵、曹仁、曹真、曹休といった一族の武将が軍勢を率いて戦っています。ただし君主の一親等以内の血縁ではなく、ある程度距離があります。

■曹真の死は、曹操子飼いの血縁武将の供給がストップしたことを意味しています。それによって一族以外の武将にに軍権が移っています。その筆頭が司馬懿であったりするわけです。

■君主の若死が続いたこと、一族の有能武将の枯渇、それにともなう権臣の台頭…。魏が短命だったのはそこに原因があるように思われます。

三国志の時代に生まれていたら誰の軍に入りたいですか? 曹操軍、劉備軍、孫堅軍、...

三国志の時代に生まれていたら誰の軍に入りたいですか?

曹操軍、劉備軍、孫堅軍、何進軍、劉璋軍、張魯軍、董卓軍、張角軍、

司馬一族軍、劉エン軍、袁紹軍、袁術軍、呂布軍、劉表軍、馬騰軍から選んでください。

理由もお願いします。







もちろん!劉備軍!です!








劉備軍です。



理由は、劉備はとても思いやりがあり、【大徳の劉備】と知れ渡っています。



何よりも思いやりの力が強いのです。







劉備ですね。

関羽のもとで、荊州を守ります。







司馬一族ですね



なぜなら曹操は魅力があっていいですが、最後にあるのが晋なので三国後期の方が好きです。







孫権ではなく孫堅なんですね。



だったら、若い孫権を盛りたてて堅パパの無念を晴らしたいですね。



それに、呉は豊かだったらしいので、呉に住みたいです。



自分に実力があったら、曹操軍の錚々たる才能たちと一緒に仕事がしたいです。







劉備軍です。

益州入りするあたりからの快進撃を味わってみたいです。







袁紹ですね。子どもの病気なんか医者に任せて献帝迎えに行けとケツ叩いて彼を動かしたいです。







蜀にいきます、個人的に諸葛亮は軍事に向いてないし、保守過ぎたので、彼を倒し蜀を立て直したいです。







司馬一族軍



勝負に勝たないと







劉備軍です。

玄徳と苦労を共にして各地で戦ってみたいです!

三国志の国名について 漢が滅んでそのあと魏・呉・蜀ですが 魏も呉も大昔の春秋戦...

三国志の国名について 漢が滅んでそのあと魏・呉・蜀ですが

魏も呉も大昔の春秋戦国時代にあった国名です。


曹操や孫権が古い国名は嫌で全く新しい国名をつけようなんてことは可能だったんですか?







国号を変えること自体は中国の歴史上ではいくらか例が見られます。

もっともメジャーな例は後金→清でしょうかね。

他にも古くは西周・春秋時代の唐→晋もありますし、五胡十六国時代の前趙も元は漢を国号としていました。

ゆえに国号を変更すること自体は絶対にダメというわけではありません。



そもそも曹操も孫権も本拠地が魏地方や呉地方にあったので、魏王なり呉王なりに封建されたという経緯があります。

献帝が曹操を魏公・魏王に封建したのも、本拠である鄴(ギョウ)が戦国時代の魏の故地だからです。

同様、孫権も本拠とした建業が春秋時代の呉の故地ですから、魏は孫権を呉王に封建したのです。

本拠とする地方によって国号を定めるのが当時の常識でしたから、特別な理由がない限りは変更しないでしょうね。

ですから曹操も孫権も国号を変更しようなんて考えなかったと思いますよ。








kj410goto_globeさんのおっしゃる通りですね。曹操が漢(後漢)から「魏王」に封ぜられたから曹氏の王朝は「魏」になり、孫権はその魏に臣従を誓って「呉王」に封ぜられたから孫氏の王朝は「呉」になりました。

命名の由来が本拠地の地名であるというのも皆さんおっしゃる通りです。



ちなみに劉備の「漢中王」は自称です。曹操に勝って漢中を得たことで、諸葛亮ら配下に推される形で正式な任命もなく名乗りました。まあ形式的に許可(事後承諾)を求める上表は出してますが。

で、曹丕が献帝に禅譲させて魏王朝を起こし、献帝が弑逆(臣下が主君を殺すこと)されたという情報が伝わったと称して漢の帝位を継ぎました。

まあ実際は誤報(捏造?)だったんですが(^_^;



通常、劉備の王朝は「蜀」と呼ばれますが、これは本拠地である成都周辺が「蜀」と呼ばれる土地だからで、やはり魏や呉と同じ命名です。しかし劉備はあくまでも「漢(後漢)の帝位に就いた」のであり、蜀王になった訳ではありません。ですので「蜀漢」とも呼ばれますね。







多少の例外はありますが、元よりも前の中国の国(統一王朝も戦国時代、五代十国などの地方王朝も)は、その国の首都の地域の通称を国名にしています。

したがって、中国の歴史では同じ名前の国が沢山出てきます。

混乱を避けるために、世界史では「前」、「後」、「東」、「西」、「南」、「北」をつけることもありますが、当時は単純に「周」、「漢」、「宋」などといっていたようです。







たしか、呉は五代十国の時代にもあったよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E...



地域を示す言葉じゃないかな。

三国志では曹操がとてつもない悪者で玄徳が正義というように書かれていましたが

三国志では曹操がとてつもない悪者で玄徳が正義というように書かれていましたが

実際の所どうだったんでしょうか。







それはあくまで日本でメジャーな演義の設定ということをお忘れなく。

演義は後世の人が書いた半ばフィクションです。



実際は曹操は漢の丞相であり、政府そのものです。

息子が漢を廃して魏を建てたのも、漢が秦や楚を倒して建てたのと一緒です。



対して劉備は演義では漢の血筋という設定ですが、実のところかなり疑わしく、劉姓は勝手に名乗っている者も多数ある時代です。

蜀は反乱政府と見るのが正当な歴史の見方です。








三国志演義の視点だからですね。やはり正義のヒーローは弱者が力をつけ次第に強者を倒していく姿が物語にしやすいですからね。劉備は史実では短気だったようですよ。三国志演義で黄巾の乱貢献の褒美として警察署長に任命され、朝廷からの検査官であるトクユウが来た際、賄賂を要求したというエピソードはご存知ですか?劉備はそれを断ったため逆恨みされあらぬ罪をきせられ訴えられるところ事前に知った張飛がトクユウをたたきのめすというシーン。あれやったの劉備です。人望があったのは事実のようですが思慮が浅く、無知であったといわれてます。視点の問題ですからね。曹操は悪者とされてるっていうのも三国志演義で正義のヒーロー役の劉備と比較対象させるために悪くしている部分が多いです。曹操視点で考えれば、黄巾の乱の平定、董卓討伐連合の発起人など正義のヒーローと呼ぶべき功績も充分にあります。漢朝復興では傀儡政権とさせたとありますが魏公迄にとどまり漢朝自体の滅亡は反対していたようですし。見方によっていろいろですね。







歴史は正義と邪悪に割りきれるものじゃありません。



戦争で人を殺すのが悪だとすれば二人とも極悪人。



漢王朝復興が正義なら劉備が善人。



腐敗した旧体制を破壊して新しい時代を築くのが正義なら曹操が善人。







それは一般的に演義が三国志の中心だからですよ。

あくまで、演義は羅漢中の書いた本であり、

それまで語られていた講談をまとめたものになりますからね。

昔の中国の講談では、

劉備が負ければ悲しみ、曹操が負けると喜んだという

話がありますからね…。



実際に歴史ですから、どっちが正しく、間違ってるかなんて

後世の人たちの主観でしょうから

いろんな人の考えがあっていいものですが、

こと三国志は、先に言いましたが「演義」が

一般的なので劉備=善、曹操=悪という図式が出来上がってしまったのでしょう。



ちなみに秘本三国志という陳舜臣さんの書いたものだと

劉備が結構人間臭く、演義のような聖人君子って感じではないですよ。

曹操も絶対悪って感じではないですし…。







実際の事は誰にもわからないでしょう、当時の記録が正確とも限らないし捏造されてるかもしれないし、ただ一般的には曹操は姦雄であったらしく、女癖は悪かったみたいですね、創天航路と言うコミックがあるのですが、珍しく曹操視点のストーリーになっています、是非読んでください、

三国志大戦3の稼動が始まりました。

三国志大戦3の稼動が始まりました。

そこで、2の頃のSR夏侯淵や鬼神関羽、魏武曹操を全国対戦で使うことは

可能なのでしょうか?







一応可能ですが、能力変更があります。



魏武曹操はコスト2.5 武8知10 騎兵 特技・伏兵、魅力 計略「覇者の求心」 に変更

SR夏侯淵はコスト2 武8知3 「弓兵」 特技・勇猛、募兵 計略「乱れ打ち」 に変更



鬼神関羽はパラメータはそのままに計略がかなり弱体化(2.1では1部隊差で+5が+3に)されています。

三国志のデッキ診断をお願いします

三国志のデッキ診断をお願いします

今回は、英知のデッキです。

GS張春華

SR曹操

SR王異

UC辛憲英

UC丁夫人

UCジュンユウ

です。

曹操が撤退したときのためと最初に武力負けしないために柵を多めにいれました。







勝てるのか勝てないのかでいえば、質問主さんの技量にもよりますが、品位クラスであれば号令で押し込まれて終了、というイメージしか湧きません。



まず、再起持ちの軍師を入れましょう。辛憲英がいるのなら知力を奥義で上げる必要はありません。ヨウコ辺りで良いでしょう。



最高武力が8になってしまうのは仕方のないことですが、1.5でコストを崩すのは、いくら号令で武力が上がっても当り負けしがちになり、かつ弓が多く号令の爆発力にも欠けます。また、コンボに士気10を使用する大型な仕込みが必要なため、他の水や暴勇に割く士気はあまりありません。水は大きな抑止力になる可能性がありますが、動き方で対策されるものなので、確実なものとは言いにくく、また打ち損じると確実に手痛いカウンターを食らいます。



武力負けしないために柵を入れるわけではありません。苦手な開幕をしのぐために柵を入れるのです。そして柵よりも、伏兵のほうがより高武力に対して対抗できます。当然柵があればあったに越したことはありませんが、この構成では開幕でほぼ割られそうです。



普通、英知は3,2,111の構成です。最近はダメ計に対応できるということで英知を使用される方も徐々に増えてきているようですね。



SR英知

SRトウガイ

UCシンケンエイ

UC丁夫人

C劉ヨウ

GRヨウコ、GCジュンユウ



一般的な英知デッキです。基本的に教え英知を狙いますが、隠密神速という裏の手もあり、安定した構成です。伏兵と柵もあるので、開幕はそれほど苦手ではないのもポイントでしょうか。



基本的に英知は上級者向けのデッキですので、まずは使用されてから、また質問お願いします。おそらく、今よりももっと具体的な問題を認識されるでしょう。

三国志で劉備を主人公、曹操を主人公にした本、漫画はありますが、孫権を主人公に...

三国志で劉備を主人公、曹操を主人公にした本、漫画はありますが、孫権を主人公にしたものはありますか?

宜しくお願いします。







伴野 朗の呉三国志なんてどうでしょうか?



http://www.amazon.co.jp/%E5%91%89%E3%83%BB%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%...

三國志の呂布と馬超はどちらがより冷酷で残忍な素行でしたか?

三國志の呂布と馬超はどちらがより冷酷で残忍な素行でしたか?







呂布はマンガやアニメなどでは殺人マシーンのように画かれることが多いが、正史や演義では虐殺的な事はほとんどしていない。

確かに裏切りの常習犯であり義父とまで呼んだ二人を殺害したりしているが、劉備の家族を捕らえた時は丁重にあつかっているし、弱い者に暴虐を行ったという記述はあまりない。

呂布は曹操に処刑されたが、その妻子は処刑されず許昌に護送されたとされる。



一方で馬超はアニメやマンガなどでは親の敵を追う貴公子の正義の味方のように画かれるが、正史では親兄弟が都にいるのに叛乱をおこして、馬騰父子殺害のきっかけを作ったり、叛乱の際に魏に残留して抵抗した者の家族を殺したりと結構暴虐で、劉備に降る際も息子の馬秋と病気の龐徳が張魯の元に居るのにこれを捨てて降伏している。

結果、張魯が曹操に降る際に馬秋は処刑されてしまった。

こうして馬超は臨終の床で劉備に「私の一族は従弟馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承させてください。」というハメになったのである。



馬超と呂布、どちらが酷で残忍な素行だったかといえば馬超といわざるをえない。








一番残酷なのは曹操ではないでしょうか?

父親を殺されたという理由で、徐州の民を虐殺しました。死体で河が塞き止められたほどといいます。

呂布は二人の義理の父親を殺害しましたが、戦国乱世なら当たり前ではないでしょうか?馬超も曹操に破れた後で、裏切りや民への略奪をしましたが、これも戦時中なら当たり前でした。

呂布といえば董卓も残酷でしたね。都の洛陽を民を長安に移動させてから焼き払ったのですから!そんな理由で董卓と曹操が、残酷度同率1位ってところですかね。







間違いなく呂布です!

三国志対戦3の戦法、デッキ! いま三国志対戦3をやってるんですが、 いま漢軍の...

三国志対戦3の戦法、デッキ!



いま三国志対戦3をやってるんですが、

いま漢軍のUCカイ越,R曹操,R孫堅,R劉焉,R劉備,GC郭図

をつかっています。



このデッキに改善したほうがいいところを

教えていただけないでしょうか?

戦うときの戦法なども、

教えてもらえると、

うれしいので、

よろしければ

お願いします。



*ダメだしでもOKです。







先ず貴方の腕が解らないのでなんとも言えませんが



R劉焉は正直要らないかと…

あるのであれば、R袁紹、Rロ植、SR皇甫嵩の内のどれかにしたほうがよいかと、



低士気からの爆発力が欲しいのであればR袁紹

決起号令が使えるならSR皇甫嵩

相手を妨害しつつ号令が欲しいのであればRロ植



封印の睨みを使うぐらいなら、UC蔡ヨウの方が使い勝手がいい。





貴方のそのデッキでの運用ですが、

そのままでやるのであれば、



神速→車輪→神速→奸雄の謀略→増援で攻める





神速→車輪→カイ越→カイ越→増援で攻める



2度がけカイ越は範囲も広く、今でも結構使える部類かと。





===補足に付きまして===



R袁紹を入れた決起デッキですね。

相手によって戦い方は変わりますが、



1 初めの内から 漢軍の大号令を使用し攻める

但し、1ッ発でも攻城が取れないとただの最大士気損になります、相手側は此方に袁紹がいる場合十中八九これを狙ってくるので注意(あえて漢号令を撃たせてC曹植やUC惇で雲散したり、城に引きこもりカウンターで撃破をしに来たり)



2 始めは漢号令を使用せず 士気8~9辺りからの攻め

普通に、漢号令+決起戦法系(相手によってどれを使用するかを変える)が使用できる頃合

但し、此方側が士気8~9あるとすれば、相手も同じぐらいの士気を持っているので相手も号令を使ってくるかと(武力上昇値は他の号令より漢号令の方が有利)



3 漢号令はあえてチラつかせるだけで、決起のみで攻める

次回のヴァージョンから国力が3あってもそこで決起を使うと国力が0に戻るそうなので、余りお勧めは出来ないが

初めの内はR孫堅R劉備で国力を上げ、国力が3になってからの神速行で各個撃破を狙う。

UC張任は計略がマイルドになったので武力要員として(相手が人馬一体や神速戦法で攻めてくるなら話は変わりますが)扱うのがよろしいかと。







漢軍の特性として知力が低いカードが多い為、相手にダメージ計略がある場合は号令を使用する時以外は固まらないように。

そして、漢号令を使用すると最大士気が-3となるので2度がけカイ越は すぐには出来ないので注意です。

三国志で典偉が、十歩になったら教えろという場面がありますが、あれは何ですか?

三国志で典偉が、十歩になったら教えろという場面がありますが、あれは何ですか?

敵に曹操を追われてる時に、味方兵士に「十歩になったら教えろ!」という場面で、典偉はその間何をしているのですか?

投げる武器を準備しているのですか?

ちなみに横山三国志を読んでます。







エンジョウの所ですかね?



あれはコシャジの毒で目が見えないはずです。

なので必要だったのでは?と推測します

三国志大戦3のバージョンアップについて質問!

三国志大戦3のバージョンアップについて質問!

三国志大戦のバージョンアップについて質問です。

現バージョンでは流行っていたカード(曹操や献帝など)の能力が下方修正されるらしいです。

僕が今使っているSR関羽も下方修正されるようなので

この際デッキを変えたいと思っています。

なのでどのようなデッキがいいのかなどご回答お願いします!!!







デッキ案ですが

超絶強化系はどうでしょうか



R孫策

R周姫

R周喩

UC呂蒙

軍師陸遜



4枚デッキですが、 高武力低知力が2枚あるので妨害に注意すれば

それなりに扱えると思いますよ、











まだ修正されるといっても、ロケテスト内での情報で、セガが更に裏をかく場合もあるわけです。

正式にバージョンアップするまではどうなるか解りませんね。








その手の質問はまだ気が早いです。



今ある情報は確定ではなく、変更点も激しいことが予測されるため実際に稼働してみないとなんとも言えません。(SR関羽が弱体化されないという可能性も0ではない)







安易なデッキの変更はかえって勝てなくなることが多いので、デッキを変えたいのなら次バージョンが稼働してからの検討をお勧めします。

2012年3月27日火曜日

三国志について。先日レッドクリフ2を見終えました。 とてつもなく感動したとともに...

三国志について。先日レッドクリフ2を見終えました。

とてつもなく感動したとともに話のどこからどこまでがリアルなのか気になって仕方ありません。


ソウソウが最後殺されなかったのは事実ですか?

戦で生き残った役者たちは三国志でもまったく同じですか?

言い出したらキリがありませんが三国志に詳しい方,レッドクリフと三国志を見て

真実とそうでないところを教えていただきたいです。







正史(歴史書)には赤壁の詳細な記述はあまりありません。

レッドクリフは演義(正史をもとに、他の歴史書の逸話や作者の創作を盛り込んだ明時代の小説)をベースに、さらにオリジナル要素を加えたものです。



正史でも演義でもないレッドクリフ独自の表現を軽くあげますと、



・小喬は三国志では特に活躍しない。



・孫尚香も同様に赤壁で活躍はしない。

スパイもせず、仲良くなった叔材も映画の創作。



・中村獅童扮する甘興も映画の創作。

モデルは呉の名将甘寧だが、赤壁で戦死はしない。



・黄蓋が周瑜に「自分に何か罪状をいいつけて鞭打ちの刑に処し、その姿で偽の投降をすれば曹操は信じ込み火を放てる」と献策し却下されているが、演義ではそれが採用されている。

周瑜と黄蓋がののしりあい刑に処される黄蓋の話をスパイから聞いていた曹操は、黄蓋の偽の投降を受け入れるが、黄蓋は乗ってきた船に着火、曹操軍の船は炎上することになる。



・孔明と周瑜の友情はない。

演義では、周瑜は孔明に策を見破られまくり、いつも孔明には一歩及ばず悔しい思いをさせられる孔明の引き立て役にされている。

孔明の才を危険と感じた周瑜は、赤壁のあと孔明が劉備のところに帰るまえに殺してしまおうと考えるが、それを読んでいた孔明にあっさり逃げられる。

最期は孔明に恨み言を吐いて吐血しながら憤死。



・孫・劉のメイン武将たちが曹操を追いつめるのは映画の創作。

演義では、敗れた曹操軍の退却ルートに孔明があらかじめ張飛や関羽を配置し、曹操を討とうとするが、以前曹操に一時世話になった関羽が情にうたれ、曹操を見逃してしまう。



ぱっと思いつくあたりではこんなところです。

補足、訂正ありましたら他の回答者様お願いします。








1・赤壁の戦いの魏の敗戦が「疫病蔓延」だったことは、正史にも記述がある。曹操軍の兵は湿度も低く、平野が続く華北の兵が多く、湿潤で沼地の多い長江江南の気候に合わなかった。一説によると、江南の寄生虫が原因だったとも考えられている。



当時、病気は「細菌」が起こすとは考えられておらず、(細菌説は19世紀のドイツのコッホから)、ああいうことをして病気がうつることを知っていたとも思えない。いかにも現代人が考えたっぽい、創作ストーリー。



2・小説である「三国演義」で、諸葛孔明が周瑜を参戦させるため、「曹操が君の奥さんを狙っているよ」とささやいた・・・と言う場面があるが、まったくのフィクション。

小説の中で、孔明はその根拠として、曹操が詠んだ詩(「銅雀台」)を挙げているが、その解釈はまったくのでたらめ。



3・小説においては、登場したばかりの諸葛孔明の最初の大きな見せ場であり、だから「神のごとき知恵」の天才軍師のように描かれている。

演義の影響もあって、中国では孔明を「知恵の象徴」のように言われることもある(ことわざで「靴屋も三人いれば、諸葛孔明の知恵」というのもある)



実際は、孔明の使命は呉と同盟できた段階で、終わっている。正史では、劉備たちに周瑜は、「戦いは呉がやるから、あんたたちは引っ込んでろ」といわれている・・・。







歴史上でのことは先の回答者さんの言ってる通りですね。



ただ三国志はその時代の一大歴史物語なものですね。

フィクション要素も多数含まれています。

ただレッドクリフは三国志をだいたい忠実に描いているのでストーリーの流れや登場人物もだいたい三国志通りです。(微妙に違うところもあったが)



三国志でも大敗を喫した曹操は家臣の助けを得ながら辛うじて逃げ帰ることができました。

そして再び孫権と戦うことになるんですけどね。







レッドクリフは、京劇(お芝居の話)に、映画用に手を加えた作り話です。

曹操が、死ぬことはありませんでしたが、正史上では、敗北したのは事実ですが、

単に、曹操軍に疫病が蔓延し、その隙に、火計にあい50万中30万の

将兵を失ったとしかかかれていませんし、赤壁の戦い上、諸葛孔明が

活躍したともありません。

その曹操ですが、中国史上でも、特筆するべき君主であり、知将であり、猛将でした。

最後には、敵方であった・関羽を、諸侯の礼をもって埋葬するような人物でもありました。

三国志クイズ!!


三国志クイズ!!

三国志を著した○○は、蜀志「関張馬黄趙伝」の張飛伝の最後に張飛と関羽の人物評を併せて載せ、

このように括っている。

関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。

関羽は○○を切ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は○○の義心に感じ入ってその縄目を解き、

両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。

しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、

これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げる事となった。

理数とは、こういうものなのだろう。



問1



三国志の著者は?

蜀漢と西晋に仕えた官僚です。



A. 陳式 B. 陳寿 C. 陳珍



問2



関羽が切ったのは?

官渡の戦いの前哨戦、白馬の戦いの時です。



A. 顔良 B. 文醜 C. 華雄



問3



張飛が縄目を解いたのは?

益州攻略戦の時です。



A. 黄忠 B. 李厳 C. 厳顔







問1 B陳寿



問2 A顔良



問3 C厳顔



だと思います。。。







問1 B陳寿



問2 A顔良



問3 C厳顔

私は三国志にはそれほど興味を抱いていないのですが、最近は曹操個人に対して少し...

私は三国志にはそれほど興味を抱いていないのですが、最近は曹操個人に対して少し興味が出始めてきました。

ただ、曹操について知っているのはほんのわずかでどういう人物なのかもまだほとんど知らない状態なのですが、あなたから見て曹操とはどんな人ですか?



曹操を一言で表すとどんな言葉になりますか?







私の勝手な見解です。



そうですね、

曹操は織田信長に非常に良く似ていると思います。



なぜかといいますと、

曹操は野望のためには、

どんな手を使ってでも成し遂げようとする、

向上心に溢れており、

また、優れた部下を大切にします。

ですが、私情を挟むこともよくあり、

失敗もありますが、

曹操自身の能力がそれに勝っており、

慕ってくる者も多いです。



また、

10倍の兵力を持つ袁紹を相手に、臆せずに

奇襲で破った事などを見ると、

大胆かつ冷静な所が、

信長に非常に似ていると私は思います(^O^)







青年時代までは、

「天下の神童」で、



それ以降からは、

「天下の傑物」

と私は評します。








狡猾な奸雄



ってところですかね。

小ずるく立ち回り、天下を自分の中心に引き寄せてゆく天才的な行動。

悪名を被り続けながらも、前進を止めないゴーイングマイウェイな

槍の穂先のように鋭い信念。



奸智が必要な時代というのも確かにあったと実感できる傑物です。







「傑物と怪物は紙一重」、でしょうか。







超世の傑



一々書きませんが、彼の功績は彼の時代だけでなく、後世にも

様々な形で影響を及ぼしました。ならば時代を超えた英雄、と

言う意味の上記表現が一番しっくりきますね。







はかりがたい、です。



才能は軍、政、文に及び豊かで、量りがたく、腹に一物常に抱えているという意味で謀りがたく、彼の想像していたであろう天下の形はまさに図りがたいとしか言えないと思います。



良い意味でも悪い意味でも、魅惑的です。







才能に恵まれた[ちっさいおっさん]です。







一言で表すと人妻大好きの変態です。でもこれも彼の一面でしかない。



あるいは戦術の天才、あるいは肝心なとこで油断する大馬鹿、あるいは見栄えというコンプレックスに悩む普通のオッサン、あるいは詩が大好きな文化人。彼を一言で全て表現するなんて無理ですね。







乱世の奸雄です。一言







一言で表すなら「天賦の才」

ですね。

小説三国志オススメは? 『蒼天航路』で曹操ファンになりました。 マンガの方は『...

小説三国志オススメは?

『蒼天航路』で曹操ファンになりました。

マンガの方は『天地を喰らう』あたりから殆ど読んだと思います。

『演義』ではなく、『正史』の方の小説でオススメを教えて下さい。

孫子や解説書も随分読んだので、とりあえず短そうなのから、と『小川環樹著・三国志 上』を買いましたが、演義だった上に、子ども向け(『報仇雪恨』すら漢字で書かれていないレベル)で、話がダイジェストすぎだったので、他のが読みたいです。



長編短編、剣豪小説、陰謀小説、別解釈(『火鳳燎原』レベル以上でも)、問いません。

あなたが興味深い! と思った正史三国志小説を、「ここが良かった」「ここが注意」なども含めて教えていただけると嬉しいです。

まったく解釈が違う、などでしたら合わせて買いたいと思います。



・オーソドックスなノーマル正史(基本用)

・曹操より

どちらも情報欲しいです。



曹操が主人公レベルなら演義の小説でも大丈夫です。



よろしくお願いします。







正史でという事でしたら、宮城谷昌光さんの『三国志』がお薦めです。

現在も文藝春秋で連載中ですが、この9月に単行本の8巻が出て、曹操が死に劉備が病に倒れる辺りまでが描かれているようです。



宮城谷『三国志』の特徴としては、黄巾の乱から始まるケースが多い『演義』と異なり、その100年ほど前の後漢王朝第四代和帝の時代から描かれているという事です。

いかにして王朝が宦官に支配され腐敗し、国が乱れていったかが丁寧に描かれ、必然として黄巾の乱が起こった事がよく分かります。

この100年を綴るのに約1巻半ほどが費やされているので、最初は少し退屈かもしれません。



又、『演義』では悪役に描かれがちな曹操が、傑出した統率力を持ったリーダーとして描かれているのも特徴の一つといえます。

器が大きく部下を大切にし、用心深くありながら時に大胆な作戦を取る。

実に魅力的な人物で、これまで劉備贔屓だったのを思わず乗り換えてしまったほどです。



あくまで正史に基いているので、赤壁一つをとっても劇的な戦いにはなりませんが、その分、人を深く掘り下げているので群像劇としての面白さがあります。

曹操がお好きでしたら是非、お手にとってみては如何でしょう?お薦めです。

三国志の主役は曹操ですよね?

三国志の主役は曹操ですよね?

何だかんだいっても、やっぱり曹操ですよね。蜀なんて魏からみれば鼻くそ程度なんですよね?三国志演義などは話を面白くするためにワザと蜀からみてるんですよね?







疑いのない 事実です。。

どうか考えても 曹操でしょ。。








前半曹操、後半司馬一族だと思います。

中国では三国志では蜀が人気なんでしょうか? 僕は曹操の魏が好きなんですが、中国...

中国では三国志では蜀が人気なんでしょうか?

僕は曹操の魏が好きなんですが、中国ではあんまり人気ないんですか?







中国でも通常の場合は蜀が人気ですね。



元代に「三国志演義」が編纂、成立する前から宋代には既に講談などで三国志は人気ある演目だったようで、

「三国志を聴いた子供は、曹操が勝つと涙を流して悔しがり、劉備が勝つと大喝采した」

などという記録があるそうです。

もっともこれには絶えず遼、金など常に北方民族から圧迫されている現状を、魏からの圧力に脅かされている蜀の人々に重ね合わせていたからだとも言われています。



これら民間レベルでの人気から、京劇でも曹操は悪役メイク、蜀陣営はヒーローメイクです。



また、三国志を奨励し、劉備、関羽、諸葛亮などを善側とすることは政府にもメリットがありました。

絶えず皇帝に忠義を尽くし、絶対に裏切らないという人物像は政府にとっても理想の家臣像だったわけです。



もっとも最近は曹操という人物の才能が再評価され、曹操もなかなかの人気者になってはいるようですが。








三国蜀は中国ではヒーローのようなものですからね。

近代のドラマを見てる限りでも、水滸伝の梁山泊のような存在

すなわち不当な権力の圧力に立ち上がった好漢達という背景を元に

天下簒奪の逆臣達から漢王朝を守り建て直し復興させようとする

イメージが三国演義を通じても定着しているようです。



それらのイメージにほぼ疑問を持たないのも中国の方はおそらく

日本人ほど三国志のみに細かく精通ような人はごく稀で

三国時代は多くの歴史の一部

多くの文学小説の一部程度の認識であり

三国志自体は別段に特別な

存在でもないという事情もあるかと思われます。



神となり有難い存在にまで昇格した関羽

天才の代名詞ともなっている諸葛亮のみが

別格の存在として三国志を知らない人でも

偉人、英雄であると認識されているため

彼らの所属していた勢力である蜀もまた絶大な人気を

誇り続けているのかもしれませんね。



魏が人気がない、というよりも蜀の人気が上記の影響もあり

桁違いなほど凄いのだと思います。

関羽、孔明以外にも張飛や趙雲らもとても人気がありますからね。



曹操はつい最近、御陵がついに発見されたようですね!

この歴史的スクープには軽い興奮を覚えるほどでした。

是非にこれ以降、曹操も人気が上がって

中国でも人気者になれればいいですねw







郭沫若が曹操の再評価をして以来、曹操の人気も上がっているそうです。







孔明人気でしょうね、関羽は商売の神様だし。

要するに劉備玄徳という人はひたすら実直なだけで、部下の力がなくてはとても一国の王となれるような人物ではない事が人気の秘密かと。

三国志の本を4巻まで読みましたが、いまだに誰が誰なのかよくわかりません。2文...

三国志の本を4巻まで読みましたが、いまだに誰が誰なのかよくわかりません。2文字の漢字の組み合わせに翻弄される日々です。あと4巻もあるのに理解できないまま読みおえそうです。どうしましょうか?

劉備、孔明、関羽、張飛だけ判ります。







吉川英治さんの「三国志」をお読みなら、

あと4巻残っていますよね。

「劉備」、「諸葛亮」、「関羽」、「張飛」はお判りなら、



あと、魏の「曹操」とこれから登場する「司馬懿」、

呉の「孫権」、4巻ということは赤壁の真っ最中でしょうから「周瑜」

この4人を憶えておけば、取りあえず読みきれます。



残りの登場人物は、

「蜀」陣営か「魏」陣営、「呉」陣営のいずれかに属していますので、

どこに所属しているのかだけ解かれば問題ありません。

それは、読んでいると前後の脈略からお判りになると思います。



吉川さんの「三国志」は、日本の三国志小説のスタンダードです。

最も読みやすく、入門書としては最適です。

夢中で読まれているとのことですので、

物語の面白さを、まず解かって頂く為に、

一度読破されてから、

上記の8人以外の判別に移られるので遅くないと思います。



ちなみに、

「三国志」の基になった「正史三国志」には、

単独で伝を立てられている(つまり、主役.準主役級)人物は、

魏書228人.蜀書83人.呉書129人.計;440人

1度でも名前の出てくる(脇役級)の人数:4894人もいます。



小説はいくらか端折っているでしょうが、7割としても3500人。

これでは読みながら憶えるのは不可能ですね。



現在レッドクリフ特需で、

三国志関連のビジュアル本がごろごろ出ていますので、

一旦読み終えてから、

各武将のプロフィールを読んで、ビジュアルで顔を確認して、

(ただし、あくまで想像上の肖像画であって、みんな男前に描かれ過ぎですが・・。)

さらに興味をもたれたなら、

その後、他の作家さんの書かれている三国志を

もう一度読まれることをお勧めします。



陳舜臣さんの「秘本三国志」を推薦します。今、新訂本がでてます。








まぁ、大体は下の人が言ってるとおりなんだけど



ごくごく稀に同姓同名がいるからなぁ

「馬忠」とか「張温」とかw







その気持ちよく分かります! 一人に名前と字と2つ呼び方があるので、ややこしいですよね~



私はそんな時、登場人物の中の一人を勝手に主人公にして読んでいきます! 劉備でもいいし、周瑜でもいいし。

その方が感情移入しやすいし、周りの人物の名前も自然に覚えられますよ☆











面倒でももう一度初めから読み直しましょう。

わたしも昔他の歴史小説でそういうことがありました。最初に戻ったら今度は理解できて、今では思い出の名作です。







なんの本読んでるんですか?

吉川英治を始めて読んだ時は夢中で読みましたけどね。

本屋にイラスト入りの三国志のガイドブックがあるんで合せ読みしたらどうですか?

絵で人物覚えるから忘れにくいですよ。







三国志の本とやらがなんなのかわかりませんが、最初から読み直して、名前のメモでも取って人間関係を整理しながら読んだ方が良いと思います。



それが嫌なら、たまたま不向きだったという事で読むのを止めた方がいいでしょう。







小説はやめにして、漫画で読み直しましょう!

三国志でなぜ曹操が悪い人間だと思われているのですか? 個人的には一番すきなので...

三国志でなぜ曹操が悪い人間だと思われているのですか?

個人的には一番すきなのですが・・・







歴史的な魏の位置づけを知る必要があります。

まず、陳寿の正史「三国志」が書かれた段階では、陳寿は西晋に仕えており、西晋は魏から禅譲を受けたことになっていますから、正当王朝は魏と定められていました。この段階では、蜀はあくまでも地方王権にすぎませんでした。陳寿自身は蜀出身なので、魏をただ正当王朝として褒めたたえて呉や蜀を貶める記述をしたわけではなく、比較的公平な視点から書かれた史書として歴史的に信用できると評価が高いです。

後に時代が下り、講談師が様々な場所で三国志を題材に語ったといわれています。このとき、魏は悪者として描かれていたかどうかはわかりませんが、話をおもしろくするために魏を悪として語った可能性は十分あります。

さらに南宋の時、有名な儒学者である朱熹は魏が後漢から禅譲したことを新の王モウが前漢から禅譲を受けて簒奪したのと同じように捉え、魏を簒奪者としてとらえました。その朱熹の影響のもと発達した儒学の学派が朱子学で、この時代にはおよそ魏を悪者として考えるようになっていたといえます。そして、蜀こそが漢の正統な後継王朝として、位置づけられました。これを蜀漢正統論といいます。

南宋の次の元の時代、三国志演義が成立します。ここでは、ご存じの通り曹操は簒奪王朝魏の建国者として、良いイメージでは書かれていません。主人公は劉備ですからね。こうして、今に至るまで物語では曹操が悪者として描かれることが多くなった、といえます。

最近になって、曹操を悪者視する傾向はだいぶおさまってきました。たしかに簒奪を狙っていなかったとはいえませんが、当時の時代情勢からいって、学問的には曹操及びその子孫が中国王朝の基礎となる部分を多々作ったこと、そういったことが評価されてきたのも大きいですし、巷ではやはり強いものに対するあこがれといったものも大きく影響しているのかもしれません。








徐州での皆殺しが一番の理由・・・かも。







日本では曹操は悪人だと思われがちですが、僕の知人の中国の方の意見は

中国では逆の意見の人が多いみたいです。

曹操は悪人というより英雄扱いを受けていて日本の信長のような感じだそうです。







物語、「お話」として善悪対立させたほうが、読者にわかりやすいからですね。



「封神演義」の殷の紂王だって悪人にされてるし、「隋唐演義」の隋の煬帝だって極悪人、「説岳全伝」の四太子だってそうですね。



しかし、曹操の「凄み」は、悪人扱いされていながらも人柄がにじみ出るところで、例えば虎牢関の戦い後の単独の突撃や、関羽を見送る場面での立派な態度など、「悪人にしたいけど・・・」その素晴らしさがあふれ出てしまい、作者もごまかせないんですね。







曹操は武人としても文人としても、そして政治家としても・・・と多芸多才のマルチ人間で評価として「非常の人、超世の傑」があります。並の人間ではない世を越えた英傑ということですが、己の天下を取るためならどんな罪悪人でも採用し、天下を阻むものなら功臣でも情け容赦なく死に追いやるところがありました。それゆえ天下を取ったともいえますが当然えげつないこともやり、不評を買うことも少なくありませんでした。董卓暗殺失敗の際、頼った父親の義兄弟に猜疑しその一家を虐殺した際、自分が他人を裏切っても他人が自分を裏切る事は許さない」といったり、父親を殺した太守を討伐する際、その支配下であった徐州の民衆を虐殺したこともあります。一説にはそれが諸葛亮(孔明)が魏の臣下にならなかった一因とも言われます。超越した才能の持ち主であったのですがその反面その人間離れした考え方は一般民衆からは到底理解されず敬遠され嫌われることにもなったようです。







劉備=善,そのライバル=悪の図式からくる演義の影響でしょう。

また,時の権力者に対するやっかみ等もあったと思いますよ。

三国志についてのオススメの小説を教えください。

三国志についてのオススメの小説を教えください。

中学の頃、吉川英治の三国志を読みました。

すごい読みにくかった印象が残ってます。

意地で全部読んだのですが、ほとんど内容を覚えていません^^;

今読めば違うのかな・・・・?とも思うのですが・・・

オススメの小説を教えてください^^



また、三国志と三国志演義ってなにが違うのですか?



よろしくお願いします。







「三国志」は、中国の歴史書です。

「三国志」という書物があるわけではなく、「魏志」「呉志」「蜀志」という歴史書をあわせて、「三国志」と呼んでいます。

いわゆる「正史」の1つで、これが公式の事実だ、とされています(実際は誤りや脚色があるでしょうが)。



「三国志演義」は、「三国志」を元にした小説です。

さらに脚色が進んでいるため、架空の人物が登場したり、ストーリーが異なっていたりします。

例えば

・関羽の実子である関平が養子として登場する

・関羽の家臣に周倉、3男に関索、曹操の家臣に夏侯徳、董卓の愛妾にチョウ蝉なる架空の人物が登場する

・馬騰が殺害される経緯が、正史とは逆になっている

等等、数え上げればキリがありません。



日本で「三国志」というタイトルで売られている本は、だいたいが「演義」を元にしています。

正史よりも物語性が強く、読者を引きつけるものがあります。

日本語のものでは、やはり吉川英治が一番いいのではないでしょうか。

私はあれが一番だと思っています。

あれが読みにくければ、横山光輝の漫画を読まれたらいかがでしょうか。

三国志で 有名な 曹操の あまり知られていない 逸話や 豆知識など 知っていたら 是...

三国志で 有名な 曹操の あまり知られていない 逸話や 豆知識など 知っていたら 是非 教えてください







・少しぐらいなら毒酒を飲んでも平気だった(武帝紀注より)

・嬉しいことがあると音楽に合わせて馬上で舞う癖があった(武帝紀注より)

・好物は梨。皇帝に「これすごくおいしいですよ」と書き添えて献上するぐらい好き(太平御覧より)

・側近がミスを犯すと激怒して杖で折檻していた(三国志何キ伝より)

・30cmぐらいの山菜を生でガツガツ食ったことがある(武帝紀注より)








最近 中国で曹操の墓が確定されました。

曹操は中国では悪役ではなく素晴らしい人物として評価されているそうです。

三国志大戦 三国志大戦デッキ診断宜しくお願いします。 デッキは反計デッキです...

三国志大戦



三国志大戦デッキ診断宜しくお願いします。

デッキは反計デッキです。

SR曹操(求心)

UC荀攸(大水計)

R荀イク(幻妙なる反計)

R司馬昭(神算鬼某)


C郭淮(看破)

軍師

陳羣&張春華



です。

品は3品です。

現Verではやはり不利でしょうか?

あと出来ればでいいのですがもし、このデッキと当たったとしてどんな印象受けますか?



簡単にでも答えてくれたら嬉しいです。



質問ばかりですみませんが宜しくお願いします。







機略デッキだったらまだわかりますが、求心デッキではあまりいいデッキになりませんね。

大型計略を固めすぎて総武力が完全に低いです。

このデッキなら相手は確実に士気を貯めさせない戦略で攻めてきますよ。

私の使っている悪来機略デッキでも反計は司馬師と丁夫人しか入れてません。

求心の範囲に入れながら大水計と反計3枚でロックオンする攻め方は、反計好きの私でも難しいです。

反計主体のデッキにしたいなら魏武か機略が妥当です。

求心デッキを使いたいならR荀彧かUC丁夫人だけで十分です。








確かに総武力が低すぎる印象ですね。



反計は決まれば強力ですが、そのためには操作がそれなりに疎かになりますし、ランキングの上位に溜め計略持ちや疾風怒涛のようなほぼ反計できないような奴がいるのがマイナスですね。



大水計も今や必殺の威力ではないのでやはり厳しい感じがしますね。





確かに当たったら計略の使いどころや位置が限定されてきてやりにくいとは思いますが、前述の通り素武力が低いので、素武力で勝っているなら求心や水計を撃たせないためにわざと反計を誘って白兵で勝利する、形になりますかね。

もっと言えばこのデッキは反計すべきものが反計出来なかった場合や、複数枚の反計範囲に入ってカットインが出た場合誰が反計するのかわからない、即ち式計算がゲームシステムのせいで崩れてしまう可能性がある、この辺が厳しそうですね。



どちらかといえば武闘派の2コストを入れて(デッキ的に何とかしくれるのは徐晃かな)、1.5に郭淮か司馬師、1コストに丁夫人か荀イク、もう1枚は武闘派にしておけば反計を匂わせつつ普通の覇者求として戦えそうですけどね。









まずこのデッキと当たったら、なんだこりゃ?戦いにくそう。が素直な感想ですね。

デッキですが、覇者求デッキにしては素武力合計がかなり低いですね。それに曹操が撤退すると圧倒的に不利になるでしょう。自分も覇者求デッキを使ってますが、このデッキは自分はちょっと扱えないです。反計ならカクワイだけで十分ですし、ジュンユウもジュンイクもいらないです。

という事でデッキを作るなら、

曹操

カクワイ

Rヨウコ

UC曹仁

UC楽進orRカク

ですね。

三国志の好きなエピソード 教えてください。(冗談にも付き合ってください)

三国志の好きなエピソード 教えてください。(冗談にも付き合ってください)

あなたの好きなエピソード教えてください



私は曹操と劉備が英雄について論じてるエピソードが大好きです。

「君と予だ」

曹操はそこまで劉備を危険視していたとは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最高の演出です。

あのフレーズには鳥肌がたちました。



英雄は英雄を知る。まさにロマンですね。





これは冗談ですが

三国志でガンダム、してくれたら、面白そうじゃないですか??

劉備が ガンダムに乗って戦うってことです。ストーリーはそのまま、三国志で。

(ガンダムも好きなので)



これはおもしろそうか、おもしろくなさそうかだけ回答お願いします。

ノーコメントでもOKです。

SDガンダム三国志は見る気すら、失せましたので







ミーハーですが、

長坂橋ですかね。

糜夫人が、足手まといになるとして趙雲に阿斗を託して、傍の井戸へと投身自殺を図ってしまう悲しいエピソード。

趙雲と阿斗は劉備の元へと無事に帰参。



男のロマンたっぷりのエピソードが多いからこそ、「母性愛」が光りますね。



三国志でガンダムいいですね。

リアルなら、行けそうですね。しかも演義だったら、特に。



ガンダム三国志は、もはやどちらでもないですよ。

どっちにしても論外です。








笑いすぎて料理の皿に顔を突っ込む曹操。



なんかクールなイメージがある曹操だけにこのエピソードだけで物凄くイメージが変わりました。



三国志でガンダムですか、なんとなく袁紹は百式に載ってそうなイメージです。色的に考えて。

曹操はサザビーみたいなファンネル装備のニュータイプ専用機。というか、魏には実際にニュータイプじみた能力の記述がある許褚が居たりしますが……。

好きなエピソードという事なので、その許褚のエピソードも一つ。

官渡の戦いで退陣中、曹操の親衛隊の一部が曹操を裏切り、曹操を殺して袁紹に投降しようと考えていた。

しかし、普段は曹操の近くには常に許褚がいて手出できなかったので、彼らは許褚が休みの日を狙って事を起こそうと計画した。

計画実行のある日許褚は休みだったので曹操とは離れてくつろいでいたのだが、なにやら胸騒ぎを感じ(きっとこの時『キュピーン!』が出たに違いありません)曹操の元へと駆けつける。

そうとは知らず曹操を暗殺しようとやってくる裏切り者達。しかしそこには居るはずのない許褚の姿が!

裏切り者を見つけた許褚すぐさま彼らの考えを察知し見敵必殺。無事曹操暗殺計画は回避されました。めでたしめでたし。



感だけで暗殺計画阻止とかお前どこのニュータイプだよと思ったエピソードでした。







215年に起きた合肥の戦いですね。



呉が10万で合肥を攻めた時の話ですが、張遼が配下800人で戦を仕掛けます。

張遼の戦の凄まじさとは裏腹に、配下が張遼に付いてこれず10万の中に取り残されます。

張遼は囲いを突破したにも関わらず配下を助けにまた10万の中に突撃し無事救出して引上げます。

この勇猛な出来事に孫権も意気消沈し、張遼は合肥を守り抜きます。



私はこの張来来エピソードが一番好きです。

この後の孫権撤退時の孫権・凌統エピソードも素晴らしいです。





三国志のガンダムですか。

私もガンダムは好きですが、ガンダムにはガンダムの素晴らしい話があり、三国志もその然りです。

三国志の良い所は各武将の逸話も面白いと言う所もあります。

ガンダムと組み合わせるのはちょっと邪道かと。すみません。



>ridermax265様、宛での話は曹昂ですね。



参考にどうぞ。







やっぱり三国志のエピソードと言えば、



曹操を逃がすために死んだ、典偉と息子の曹植(合ってる?)のエピソードだな。



あとは『泣いて馬謖切る』だね!



ガンダム三国志?

蜀は連邦、魏はジオン、呉はどこだ?



赤壁の戦いは間違いなくズゴックとか、水陸両用で満杯だな!笑



呂布はなんだろ?ジ・Oかな?隠し腕とか怖い(^^;)

夏候惇はもちろんモノアイの機体ね!笑

兵卒はジムなんだろな~笑

ザクヘッドの機体とかもありそう。







関羽千里行です。

ある意味関羽の浮気話とも取れますが、まぁなんと清々しい意義ある浮気な事か。

特に曹操は、この時程いい人っぷりが出たエピソードはないですからね。

信義という言葉の意味を知る事が出来た話でした。



三国志ガンダムですか。

Zのシチュエーションでお腹いっぱいです。

劉備→カミーユ、いやクワトロ?

曹操→シロッコ

孫権→ハマーンで。







史実か創作かはわからないですが

孔明亡き後の五丈原で司馬イが作り物の孔明を見て、逃げ惑う話。



国力で劣る蜀は孔明亡き後に滅ぼされたので孔明の偉大さがわかります。



私的にSDガンダムの三国志はガンダムの意味がありませんでしたね。

操縦する形であればいい案だと思います。

「三国志」てっ「曹操」「劉備」「孫権」「呂布」とか1人っ子ですか?

「三国志」てっ「曹操」「劉備」「孫権」「呂布」とか1人っ子ですか?

「孫権」とか「子供」多いし

あの時代に「1人っ子」て珍しいような気がします。



居たけど「無視」されたとかお国柄があるのでしょうか?

後は「講談」として「キャラクター立ち」しないから

カットされたなど・・・。



推察をお願いいたします。







なにぶんにも1800年も前の事なので、史料に記載されている事以外は知りようがないのが現状です。

曹操や孫堅には名前の残っている兄弟がいますが、劉備や呂布には見当たりません。しかし史料に兄弟が見当たらないからといって一人っ子だったかというと、必ずしもそうとは限りません。



劉備のように庶民の出身で父親が早世しているなら一人っ子かも知れませんが、数え26歳で死んだ孫策ですら孫紹という息子の他に娘が2人以上いた事が分かっていますし、名前が残らなかったからといって一人っ子と決めつけるのは早計と思います。








劉備に関して言えば、備という名前からすると、兄がいるように思えます。

備は、あまり長男には使われない名前だったと思います。







劉備と曹操は正史を調べてみたが記載は見つかりませんでした。孫堅には孫羌という兄と、孫静という弟がいました。







曹操や劉備などは知りませんが孫権の兄の孫策は有名ですよ。

孫権には他にも孫翊・孫匡・孫朗や劉備と結婚したと言われる孫夫人(孫向香)などの兄弟がいたようです。



曹操・劉備・呂布の兄弟の話は確かに聞きませんね。

でも調べたところ曹操には曹徳、曹彬、曹玉など数人の兄弟がいたようです。



劉備と呂布には兄弟の話を聞きませんね。

劉備に関しては父親が早くに死んでいるので兄弟はいなかったかも知れませんね。

呂布は良く判んないけど養子になってたりしてるので義兄弟ならいたと思います。



補足への回答

孫堅の方なら弟に孫静や兄に孫羌という人物がいたそうです。

三国志を知りたい!!!!!!そこで、お勧めの本を教えてください!!!!!

三国志を知りたい!!!!!!そこで、お勧めの本を教えてください!!!!!

三国志を勉強したいです。学習漫画、小説などは問いません。

あなたのおすすめの本を教えてください!(中2です)







◎歴史を知りたいなら

岩堀利樹著『正史「三國志」完全版』(文芸社)



◎小説を読みたいなら

立間祥介訳『三国志演義』(徳間文庫)



◎漫画を読みたいなら

李學仁作『蒼天航路』(モーニングコミックス)



「三国志」というのは、陳寿が著した歴史書『三国志』(3世紀末)のことです。

この本に、漢末三国時代の歴史が書かれています。日本でも完訳は出ていますが、三国志の歴史を通して読みたいときは岩堀利樹の『正史「三國志」完全版』がお勧めです。正史だけでなく野史も加味されている貴重な本なので、史実を知りたいならこの本です。



この時代を題材にして、民話・講談などがまとめられた小説が『三国志演義』(15世紀頃)です。この本が三国志をモチーフにした小説の本物です。歴史と違って、覇者である曹操ではなく、敗者である劉備を主人公として物語が展開されます。立間祥介訳と井波律子訳の二人によってそれぞれ完訳が出ていますが、どちらもお勧めです。



最近では、正史に近づけて書こうとした北方謙三や宮城谷昌光などの小説(曹操が主人公)も出ていますが、どうせ史実に沿ったものを読むなら『正史「三國志」完全版』の方が役に立ちます。吉川英治などの小説は、『三国志演義』のダイジェストコピー作『通俗三国志』を基に書かれたものです。劉備を主人公とする点は『三国志演義』と共通ですが、内容は大分違います。『三国志演義』のコピー作のコピー作なので日本独自の別作品と言えます。



やはり小説なら、立間祥介訳か井波律子訳のどちらでもいいので本物の『三国志演義』をお勧めします。中2でも楽しめます。



コミックなら、曹操を主人公にした『蒼天航路』が最近の定番です。

横山光輝の『三国志』は、三国志で一番肝心な官渡の戦いが描かれていないのでお勧めできません。それにこの漫画は吉川英治の小説をベースにして書かれています。つまり、本家『三国志演義』のコピーのコピーのコピー作になります。



もちろん、小説も漫画も歴史とは異なります。








私も中2ですが。

北方謙三の三国志がお勧めです。

13巻まであるのでちょっと長いですが。

あと三国志演義<一般的な>とは話が違うので

ひと通り三国志を読んでからでもいいです。







中2なら立間祥介訳の『三国志演義』くらいよめるでしょう。



私の場合は;

小学生の頃

横山光輝『三国志』(マンガ)



中学生になってから

吉川英治『三国志』

立間祥介訳の『三国志演義』



高校に入ってから

正史『三国志』(読破していません。興味あるところを見るだけです)。



その他にも中学の頃は柴田錬三郎の『英雄ここにあり』『英雄生きるべきか死すべきか』とか、村上知行の『完訳三国志』とか植村清二の『諸葛孔明』(小説ではないです)とか、そこそこいろいろ読みました。



でもやっぱり一番おもしろかった(今でも面白いと思う)のは原点の『三国志演義』です。



宮城谷昌光『三国志』はまだ完成していないのでほぼ手をつけていません(2巻だけ読みました)。

イッキに読むのが好きなので、全編終わってからまとめて買うつもりです。



北方『三国志』はあまりにも脚色が多いので、途中で嫌になりました。

但し、ファンも多いようなので、読んでみてもいいかと思います。



なんでも読んでみればいいと思いますよ。

まあ、私の一押しは『三国志演義』ですけどね。



*三国志には正史と演義の違いが有ります。

とりあえず演義を読むことをお薦めします。

正史を頭から読んでも、基礎知識が無いと、多分歴史嫌いになるとおもうので・・・。







①李學仁&王欣太『蒼天航路』(モーニングKC)

②片山まさゆき『SWEET三国志』(MF文庫)



マンガからの方が入りやすいと思います。

カッコ良さから入るなら『蒼天航路』、

ギャグから入るなら『SWEET三国志』をオススメします。

どちらもマンガなので歴史(史実)とは異なりますが、

三国志に興味を持てると思います。



また、もしあなたが創価学会であれば、

横山光輝の漫画『三国志』はいかがでしょう。

横山三国志は創価学会の資金源なので、

買うと喜ばれますよ。

個人的にはオススメしませんが。







私は10代の頃横山光輝の(漫画の)三国志ですごく勉強になりました。

武将が沢山出てくるのですが、KOEIのシミュレーションゲームの三国志などをやると人名はすぐに覚えられました。







吉川英治の三国志は面白かった!

三国志の武将について:陳宮がお好きな方に質問なのですが彼のどんなところに魅力...

三国志の武将について:陳宮がお好きな方に質問なのですが彼のどんなところに魅力を感じますか?

私は、三国志の武将の中で、陳宮が一番大好きです。そのミステリアスさに惹かれます。最初に曹操の覇道のあしがかりを整えた幕僚。あの混乱期に曹操を州牧へつけてしまう手腕や才覚。彼がいなければ曹操は覇道に踏み出すことができなかっただろうことを思うと、彼は初期曹操のすばらしい謀臣だったのだろうと思われて。おそらく史実には残っていないところでも、曹操を良く支えていたのではと思うのです。結局は、裏切り(想像の限りですが荀彧との派閥抗争に敗れて)呂布に走り、呂布と結託してしまうのですが…



最後に、白門楼で、己の献策を無視し続けた呂布を罵るところなどは、史書など読んでるこちらにも呂布への怒りがあるだけに「よく言った!」と快哉をさけびたくなるのですが(演義脚色は蛇足だと思っています)、そこまで呂布が嫌いで罵倒するならば、なぜ献策を聞き入れてくれるだろう曹操のもとへ再び戻らなかったのだろうともったいなく思います。これ以上の変節を彼の誇り高い性格が許さなかったのだろうことと、曹操への贖罪の意味も込めてのあの最期だとは思いますが、曹操も認めていたその才略。誰が言ったかは失念しましたが、「王佐の才」とも言われている智謀。曹操の元へ戻っていれば、荀彧、荀攸、郭嘉並み、いや、それ以上の働きをしたのではないかと思うと本当にもったいないです。白門楼での高潔な最期は魅力的ではありますが、生きて丞相・魏王としての曹操を支えて欲しかったと思ってしまいます。彼なら、曹操が魏王たることを反対しなかったのでは……とも思えて。曹操から離反したという事実があるだけに、史書にあまり良い書き方はされていない彼。好きな人物だけに、実像はどうであったのかが、詳しく知りたいです。



というわけで、皆様が考える陳宮の魅力とはどんなところでしょうか?ご回答よろしくお願いいたします。







長い目で観察した後

嫌った人間はとことんまで嫌うところでしょうかね。



「反曹操」の姿勢終始を貫いた劉備に似たところがありますが

彼の場合は逆に曹操に近づきすぎたため相性が合わなかったんではないでしょうか?



呂布場合は「頭も悪いし性格も悪い」ですがそれ故に

自分の才覚を活かせる場所も存在意義も見出せたのに対し

曹操の場合は「(非常に)頭が良いし(非常に)性格が悪い」ため

才覚に理解を示しても微妙にすれ違う見解に焦げ付いた不満が溜まっていったのでは・・・。








質問者さんは陳宮の凄さを十二分に分かっておられるようなので割愛して自分の意見のみを言わせて貰えば、陳宮はやはり頭がいいのでいづれ勢力が大きくなり地盤が固まって来たら自分は不必要と判断され殺されるのでは?と不安になったのだと思います。

その点呂布は節操もないし知力も一桁ですが(笑)自分が参謀として力を発揮すれば重用されると信じたのではないでしょうか?



当時の群雄で弱小だけど将来性がある、といったら呂布位しかいなかったのでは?







陳宮が曹操のもとに戻るなんてことはなかったでしょうね。陳宮は曹操をとても恐ろしい人物だとみていたようです。つまりトウタクと同じように乱世に乗じていずれ漢室を滅ぼすものと見ていたんだと思います。だから曹操の元をさり武勇ではNo1のリョフのもとへ行き自分の知略とリョフの武勇をもって曹操をなんとかしようと考えたのでしょう。だがリョフは基本身内の者の言うことにしか耳を傾けなかったためそれも叶いませんでした。

まあ 実際曹操にはそういう野心はなかったようですけどねwでも 聞き入れられなくとも何度も献策し、カヒの戦いでは相次ぐ裏切り者が出る中最後までリョフに従ったのですごいと思います。

三国志の曹操、孫権、劉備は好きですか?

三国志の曹操、孫権、劉備は好きですか?







演義の聖人君子な劉備は正直好きになれません。大義を掲げているわりにきれいごとばかりで結局ろくなことしてないという印象しかないです、すみません…。

正史の妻子を置いてとんずらしたり督郵殴ったりしてるヤクザの親分みたいな劉備の方が人間味があって私は好きです。

孫権も演義では主役たちの善玉性を際立たせる書かれ方をしているのでやはりいい印象はないですが、酒の失敗談とか張昭との子供じみた喧嘩のエピソードは面白くて好きです。

曹操は演義の悪役も偉業なしまくりの正史もどっちもそれぞれかっこいいなーと思います。

どれが一番好きか選べば正史の劉備ですね。








三人とも好きです。一人でも欠けたら「三国志」はこの世にありませんから。







劉備は好きです。

しかし曹操、孫権は嫌いではありませんが、あまりいい印象を持っていません。

三人とも食わせものですが、劉備は二人とは違う魅力があります。

彼の配下たちもまた好きです。

特に諸葛亮は三国志で一番を争うほど好きな武将です。







私は孫権が好きですねwっていうか呉が好きです!

人肉を食べた事がある三國志の人物を教えて下さい

人肉を食べた事がある三國志の人物を教えて下さい







『三国志』の「武帝紀」によれば、曹操に仕えた王忠という人物が挙げられます。

彼が若い時代に出身地一帯が戦乱にみまわれ、飢えを凌ぐために人肉を喰らったとあり、後年にこの件で曹丕に侮辱されています。

また、同じく曹操に仕えた程昱という謀臣は、呂布との抗争の過程で曹操軍の食料が欠乏した際、かき集めた食料に人肉を混入させたとあり、これがために声望を失い、この一件が後々まで影響して曹丕が帝位に即いた際に三公に昇れなかった要因とされています。

ついでながら『三国志』の「魏書」「閻温伝」には、人肉を喰らう賊の存在が記されています。

これらを踏まえる限りでは、やはり人肉食はこの時代も嫌忌されるものであった様です。








劉備玄徳のエピソードは有名です。







程イクとかがいますよね

三国志の字について

三国志の字について

三国志で長男の人はだいたい「伯」(孫策伯符や陸遜伯言など)や

「孟」(馬超孟起や曹操孟徳など)ですがそのほかに明らかに

長男と判断できる字はありますか

教えてください







伯という文字そのものが長男と言う意味です。

兄弟の順番は伯仲叔李で表されていて、長男は伯、長男とあまり歳が変わらない弟が仲、少し歳が離れた弟が叔、かなり歳が離れた弟が李です。

伯と仲は跡取りの座を巡って争うことが多いので「伯仲の争い」という言葉もあります。



また、日本では伯父を父親の兄、叔父を父親の弟としていますが、本来は伯父は必ず長男、叔父は二番目以降です。最近は中国でも日本みたいになっているようですが



李じゃなくて季ですね。勘違いしてました。

仲は伯と同時期に生まれた弟で大体1,2年の違いだと思います。権力者には一夫多妻が多かったので同じ年に生まれることも多かったのでしょう。

叔は長男より数年後に生まれた弟で必ずしも次男ではありません。

季は長男からかなり歳が離れた弟で長男の子供と歳が近かったりします。跡継ぎの候補にもならないどうでもよい存在だったと思われます。

伯仲叔季は大家族制の家長から見た序列です。

現在は伯父と叔父を自分からみた相対的な位置づけで区別していますが、昔の中国では家長からみた絶対的な位置づけで呼ばれていました。伯父と叔父の区別が変わってきたように伯仲叔季の定義も時代とともに変わったのではないかと思います。

出所はなんだったか忘れましたが中公新書の中のどれかです。(ほぼ全冊読んだのでどれに書いてあったは覚えていませんん)








孟と伯以外に特別長男だとわかる字はないようです。



ちなみに



孫策伯符、陸遜伯言、馬超孟起、曹操孟徳



と言う使い方はしません。字を使う場合



孫伯符、陸伯言、馬孟起、曹孟徳



と言います。



孫策は姓が孫で名が策なので、孫策というと日本で言う山田太郎、鈴木一郎

と一緒です。

字というのは本名以外に付ける別名で、目上の者以外(親・皇帝など)本名を呼ぶこと

を避けなければなりませんから字を用いるのです。どちらか一つを呼ぶのです。

ですから名と字両方を併記することなどはあり得ません。まずそのことを理解してください。





inasa99さん



>兄弟の順番は伯仲叔李で表されていて、

伯仲叔《季》のはずですが。順番に伯《長男》・仲《次男》・叔《三男》・季《四男、末弟》と認識していますが、

>長男は伯、長男とあまり歳が変わらない弟が仲、少し歳が離れた弟が叔、かなり歳が離れた弟が李です。

順番に伯《長男》・仲《次男》・叔《三男》・季《四男、末弟》と認識していますが、自分の認識不足だったら

すみませんがそのように書かれている本があったら教えてください。お願いします。

>また、日本では伯父を父親の兄、叔父を父親の弟としていますが、本来は伯父は必ず長男、叔父は二番目以降です。

こちらも「本来は伯父は必ず長男、叔父は二番目以降です。」というのは初耳でした。もしよかったらそのようなことが

わかる本を紹介してください。お願いします。





丁寧にありがとうございます。中公新書全冊とは凄いですね。自分も中国史関係は少し持っていますが。

辞書や持っている本で調べても《伯・仲・叔・季》は《長・次・三・四(末)》としか書かれていないもので。

伯父・叔父も父の兄・父の弟の区別は書かれていますがそれ以上に書かれていませんから新たな発見

でした。今はどちらで書いても親戚のおじさんですからね。勉強になります。

三国志の曹操は漢王朝を創業した劉邦の家臣、曹参の子孫だといわれていますが、血...

三国志の曹操は漢王朝を創業した劉邦の家臣、曹参の子孫だといわれていますが、血は繋がっているのでしょうか?

お祖父さんあたりが夏侯家から養子を迎えたとかどうとかと聞きましたが。







曹操の父親、曹嵩といいますが、これが夏侯氏の出で、夏侯惇の父親の弟にあたります。

時の大長秋であった曹騰が、夏侯氏から養子にしたのが曹嵩です。



曹騰を曹参の末裔であると記述しているのは三国志の魏書武帝紀ですが、

後漢書には何故かその記述がないそうです。



このあたり、孫子の末裔だとか中山靖王の末裔だとかいうのと似たようなものなのかもしれません。








曹操の父親は夏候惇達の父親の弟で 曹家の養子になりました







◇支那の家族制度には、二つの禁止事項「同姓不婚(同姓男女の結婚不可)」「異姓不養(異姓男子の養子不可)」が有る。

◇正史には、国家の「正」統を証明する為の「史」書、と言う意味が有る(「正」しい「史」書、と言う意味は無い)。

上記事情を踏まえた上で、本質問を検討する必要が有ります。



全部の正史は、紀伝体と言う体栽を取ります。紀伝体とは、本紀(皇帝年代記)と列伝(臣下伝記)から成る史書の体裁で、正史を編纂する国家から正統と認識された皇帝の年代記が本紀に記されます。正史『三國志』は、著者陳壽が曹氏魏帝国から禅譲を受けた司馬氏晉帝国に仕えた史家だった為、曹氏魏帝国にのみ本紀が設けられます。

陳壽の責務は、曹氏魏帝国の正統を著す事です。正史『三國志』では、曹操に好都合な事情が拡大解釈され、曹操に不都合な事情が黙殺されます。



「曹嵩が夏侯氏出身で夏侯惇叔父」説は、反曹操側が著した『曹瞞伝』に基づきます。其の記載が正史『三國志』に無い為、「曹嵩が夏侯氏出身で夏侯惇叔父」説は間違い、とするのは早計です。曹氏の異姓不養違反が真実でも、違反を正史『三國志』に著せない陳壽の立場を考慮すべきです(司馬氏の処罰を畏れて不記載。他史書も同様)。

官渡合戦前に袁紹は、「曹操の父親曹嵩は氏素性も不明な乞食の子供」と言う内容を含む檄文を発します。後々曹操は、檄文の作者陳琳に「父祖の事を悪様に言う必要は無い」と言いますが、檄文の内容を否定していません。曹嵩の異姓養子の可能性は大です。

曹氏・夏侯氏には通婚関係が有り、曹嵩が夏侯氏出身の異姓養子だった場合、両氏の通婚関係が同姓不婚に抵触する為、曹嵩の夏侯氏出身を否定する見解が成立します。が、夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪等の列伝が『魏志』「諸夏侯曹列伝」に収められた理由を、彼等皆が魏帝国宗室故と解釈すれば、曹嵩の夏侯氏出身の可能性が浮上します。曹氏は、家族制度の禁止事項に無頓着だったかも知れません(禁止事項を全員が厳守したか。禁止事項を全員が厳守する社会ならば、法律無視の犯罪行為は発生せず)。



曹参は、漢帝国の高祖劉邦に平陽侯に封じられ、功臣中最高の封邑一万六百戸を与えられます。漢帝国宗室の劉氏同様、裕福に成れば分家が沢山出来た筈で、曹操が曹参後裔だった可能性も充分有ります。又、曹参後裔の事が捏造だった場合、同姓で同郷で高名な曹参程、曹操の箔付けに好都合な人物は居なかったでしょう。







これは怪しい記述だとされています。分家だとか血の繋がりを完全否定も出来ないでしょうし分からないと言う事でしょう。養子の話も、呉の著者に分かる筈がなく嘘だと言う説や、この時代は違う苗字の家に養子に行くのは悪で、武帝紀や他の歴史書では触れないでいたか隠していた事を呉の著者が曹操を悪く書く為に暴露したから史実だと言う説、菅官で子がいない曹騰(曹操の義理の祖父)は甥の曹嵩(曹操の実父)を養子とした説もあるそうです。この頃に、豪族の官僚への弾圧があり、肺国周辺の豪族の曹氏、夏候氏、丁氏、劉氏は団結しています。世代は少し後ですが丁沖、劉岱らでしょう。(劉岱はこの時代に2人います)曹操と劉夫人の間に曹昂が産まれ、劉夫人が若くして亡くなると、丁夫人が曹昂を我が子のように育てました。曹嵩にも丁夫人がいます。夏候淵の妻は曹操の劉夫人の姉妹の可能性が高いそうです。劉夫人の娘で曹昂の妹は夏候惇の息子に嫁ぎました。曹操の弟の子は夏候淵の子と結婚しました。このように曹操より前は丁氏や劉氏をはさんでならば曹氏と夏候氏は血縁関係があったのかもしれません。曹騰が菅官で築いた財産を全くの他人から養子をもらい、やってしまうとも思えません。曹操の世代以前は直接の血縁関係を避けているようにも見えて、それならば曹嵩は夏候家からの養子のようにも思えてしまいます。逆に全く血縁関係が無かったとも言えてしまいますが豪族達は弾圧に対抗して団結していた筈です。これらは私見ですが私自身の答えもまだ出ていません。











曹嵩は夏侯氏ではありません。

血縁だとする根拠になっているのは「曹瞞伝」です。

これを書いた人は呉の人間で曹操を批判しまくる内容です。

夏侯氏から曹氏に養子に入るということは、異姓養子ということです。

異姓養子はこの時代最悪な行為です。

本当に、曹嵩が夏侯氏であるなら「曹瞞伝」意外の史書に出ていてもいいと思います。



曹氏と夏侯氏は同郷で通婚関係にあり、丁氏と同じポジションです。



曹操は夏侯惇に対していつも気を使っていました。

曹操は寝床に人を出入りさせない人ですが、夏侯惇には入室を許可し、曹仁には許可しませんでした。

これを信頼と取る人もいるけど、単に曹操が夏候惇に頭が上がらなかっただけだと思います。



それと夏侯淵は夏侯惇と兄弟じゃないです。

「族弟」と書いてあったからといって、実の弟なわけではないです。

夏侯惇が将軍号に任じられるのは195年、夏侯淵は212年、年数にして17年の差です。

本当に兄弟なら、気を使っている夏侯惇の弟である夏侯淵へ冷遇とも取れる行為をしないと思います。

曹操は能力主義といいつつも縁戚関係の名族には及び腰でしたから。



この待遇の差は以後も続きました。

袁紹を滅ぼした後は更にそれが顕著です。



夏侯惇=伏波将軍(伝統的将軍号)、河南尹(首都洛陽の行政長官)。法制に縛られない特権

夏侯淵=督軍校尉(食料調達係)



何故、曹操はここまで夏侯惇に気を使うのか?

それは夏侯惇が夏侯氏の棟梁だからです。

仮に曹操の父親が夏侯氏の出なら、ここまで夏候惇に気を使うでしょうか?

曹操の夏候惇への気の使い方は明らかに異常です。

曹嵩は夏侯氏でないと考えるのが自然です。



本題である曹操と曹参の血縁関係について語ります。



「漢書」では、

・哀帝の治世に、曹参の玄孫の孫・曹本始が平陽侯(兗州泰山郡平陽県)に奉じられます。平陽侯の地位は子の曹宏が嗣ぎました。



「後漢書」では、

・建初2年、曹参の後裔・曹湛が平陽侯に奉じます。

・直系の血が絶えたので、和帝が傍系から新たに曹氏を選び容城侯(幽州涿郡容城県)に奉じます。



曹騰は豫州沛国譙県の出身です。

曹参との血縁は眉唾だと思います。

血縁があったとしても、曹参の直系ではないのは確かです。

ちなみに曹騰は皇帝4代仕えたとあります。

このことからして、相当の悪人ということがわかります。

通常、曹騰のように皇帝の側にいた近臣は皇帝の代替わりの時期に失脚するのが当たり前です。

それを4代と言ったら、奇跡というレベルじゃないです。

随分、賄賂も貰っているようですし、ただ、後漢書にはそのことは書かれていません。

これは書けなかったというのが正直な処じゃないかなと思います。



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陳寿が意図的に書かなかったというのは早計です。



陳寿という人物は書くのが憚られる重大事項の場合、目印のようなものを記述をする人ですよ。



そのまま何も考えずに読み進めるとなんともない内容でしょうけど。

三国志の質問です。 建安七子のなかでは陳琳の曹操への檄文が有名です。その他に...

三国志の質問です。

建安七子のなかでは陳琳の曹操への檄文が有名です。その他にも孔融、王粲、劉楨のことは多少ですが分かっていますが、

「阮瑀」「応ヨウ」「徐幹」の三人については何も知りません。どなたか彼らの逸話や作品などを御存じでしたら教えてください。







ならばこのページを貼っておきましょう 私が詩などを紹介したり説明するよりも良いでしょう 逸話などもまとまっていると思います



http://sangoku-touitushi.com/chapter13story200.htm



上のページだと応瑒の作品が載ってないので侍五官中郎将建章台集詩の日本語のを探すのに苦労しましたがこっちをどうぞ

PDFですけど

http://www.obs-yamazaki.com/images/sangokushi/Taro12-192.pdf








そんなのWikipediaを見れば普通に載って…ないんだっけ(笑)。



阮ウ[王禹](?~212)は字を元瑜といい、陳留郡の人。竹林七賢の阮籍の父です。若い時に蔡ヨウから学問を学び、曹操のもとで陳琳とともに司空軍謀祭酒となり記室を担当しています。軍事・国政に関する文書や檄文を執筆するのは主に陳琳と阮ウの仕事でした。



徐幹(171~218)は字を偉長といい、北海国の人です。清潔で静かな人柄で、聡明で幅広い知識を持ち、官職・俸禄を軽んじて世間の栄誉に執着しませんでした。曹操の元で司空軍謀祭酒掾属となり、曹丕の元で五官将文学となりました。詩賦に長じており、特に曹丕に文才を愛され絶賛されています。



最後は応ヨウではなく応トウ[王昜](?~217)ですね。字は徳レン[王連]、汝南の人。曹操の招聘を受けて丞相掾属となり、平原侯(曹植)の庶子(=役職名)を経て五官将の文学(=役職名)となりました。祖父の応奉は高名な儒学者として知られ、叔父の応劭は博学多識で多くの著述を記しました。



建安七子では陳琳・徐幹・応トウ・劉テイ[木貞]が同じ217年に亡くなっていますが、これは同じ流行病に揃ってかかったためです。この時の疫病はかなり致死率の高いものだったようで、農村や都市部でも死者が続出し行政が混乱に陥るほどのものだったようです。

残る阮ウは212年に病死、孔融は208年に刑死しています。王粲は217年に呉への遠征に従軍した途上で病死していますが、これもおそらく陳琳らと同じ病だと思われます。

マキャベリズムという点から見たとき、三国志の曹操はマキャベリストと見ていいの...

マキャベリズムという点から見たとき、三国志の曹操はマキャベリストと見ていいのでしょうか?

↓ マキャベリズム

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B4%E...



それとも、曹操は、

マキャベリズムとは別の、古代中国特有の(一見するとマキャベリズムに見えるけど中身は違う)価値観にもとづいて行動してたんでしょうか?







曹操は、司馬仲達を スキが全く無いが

家臣には有能だが、油断のならない者として

死ぬまで警戒していて司馬仲達も曹操に

疑いを掛けられないよう曹操が生前は常に

慎重に行動していたといいます

曹操の予感は当っていたというか司馬仲達の

孫の司馬炎が曹氏の魏を簒奪して晋を建国

した。

しかし曹操が本当に冷酷なほど非情なる

策謀家ならば禍根を断つべく司馬を滅ぼす

ことだって有り得るから案外、曹操は

あまりに非情なことは、できなかったヒト

かもしれません








中国の帝王思想で動いてますかね。

誤解される意味合いでのマキャベリズムに分類されるほどのチンケな政治家でもありません。

諸葛亮死後の三国志のあらすじを教えてください。

諸葛亮死後の三国志のあらすじを教えてください。







三国時代の曹操に仕えた司馬懿は曹操死後は魏の中心人物として権力を拡大し、諸葛亮の北伐を退けた事などの軍功により、魏の中での存在感は他を圧するものとなった。その伸張を疎まれて一時期閑職に遠ざけられることもあったが、司馬懿は息子の司馬師・司馬昭の助けを借りてクーデターを起こし、魏の権力を完全に掌握した。



251年に司馬懿は死に、その権力は司馬師が引き継ぐ。司馬師も255年に死に、司馬昭が権力を引き継ぐ。257年には司馬氏の権力掌握を打破すると称して諸葛誕の反乱が起きるが、司馬昭はこれを鎮圧して晋公の地位に勧められ、、263年に蜀へ鄧艾・鍾会らを派遣してこれを併合したことで晋王となった。

265年に司馬昭が死に、その子の司馬炎が後を継ぐ。同年、司馬炎は魏の元帝より禅譲を受け王朝を立てた。王朝を立てたのは司馬炎であるが晋の実質的な創立者は司馬炎の祖父の司馬懿である。

280年、残る呉を滅ぼして晋は中国を統一した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B








魏が蜀を滅ぼす。

魏の司馬氏が魏を倒して晋を興す。

晋が呉を滅ぼして統一。

の順です。







http://hb5.seikyou.ne.jp/home/misemise/7f/san.q-and-a.latter.htm



http://www5a.biglobe.ne.jp/~shuren/resume/analysis06.htm

 http://hb5.seikyou.ne.jp/home/misemise/7f/san.q-and-a.latter.htm  http://www5a.biglobe.ne.jp/~shuren/resume/analysis06.htm

いろんな三国志作品の「赤壁」を教えて下さい

いろんな三国志作品の「赤壁」を教えて下さい

「レッドクリフ」の原作(赤壁の戦い)を読みたいと思っています。

ただ、三国志作品はどれも長大ですので、まずは映画へのとっかかりとして、

「赤壁の戦い」の部分だけを読むことはできないかな~と思ってます。



そこで、小説、コミック、いろんな三国志作品がありますが、

それらの作品で「赤壁の戦い」にあたる部分が何巻~何巻にあたるかを

教えて頂きたいのです。



吉川英治のみ、全巻読みました。

他は、童門冬二の「三国志・赤壁の戦い」を読みました。

他の作家の作品をお願いします。



検索用:蒼天航路、北方謙三、宮城谷昌光、横山光輝







本来は、「赤壁」だけ読まれるのはお勧めできません。

前後の状況が解かってこその「赤壁」だと思いますので・・。



でもご質問ですので、

〇『小説レッドクリフ』高里椎奈(講談社)全2巻

(レッドクリフ特需の産物ですね。私は未読です。)



〇『秘本三国志』陳舜臣(文春文庫)・・5巻

(さすが陳さん、引き込まれます。新訂装版が出始めましたね。)



〇『呉三国志-長江燃ゆ-』伴野朗(集英社文庫)・・4巻「赤壁の巻」

(呉主観ですので、他の小説とは少し違う切り口ですね。)



〇『三国志』北方謙三(ハルキ文庫)・・7巻「諸王の星」

(これもチョッと独特な切り口、北方三国志の面目躍如です。)



〇『興亡三国志』三次徹(集英社文庫)・・4巻

(なかなか面白いが、一番オーソドックスですかね。)



〇『小説三国志』鄭飛石(光文社文庫)・・中巻

(韓国の国民的作家の作品です。大穴で面白いです。)



〇『三国志』宮城谷昌光(講談社)・・6巻

(安定してますね。)





漫画2種類です。



〇『三国志』横山光輝(潮漫画文庫)・・

12巻「孔明の大論陣」.13巻「赤壁の戦い」

(三国志漫画のスタンダード。曹操の顔が悪者過ぎです。)



〇『蒼天航路』王欣太(講談社漫画文庫)・・12巻

(周瑜、男前すぎ!魯粛、渋すぎ!黄蓋老人、カッコよすぎ!

諸葛亮妖艶すぎ!でも戦い自体はチョッと地味です。)



ついでに120回本の訳本でいうと、

長坂橋からとすると、

第41回「劉玄徳、民を携えて江を渡り、趙子龍、単騎主を救う」から、

第50回「諸葛亮、智もて華容を算り、関雲長、義もて曹操を釈す」まで、



〇『三国志演義』井波律子(ちくま文庫)・・3巻

〇『完訳三国志』小川環樹.金田純一朗(岩波文庫)・・3.4巻

〇『三国志演義』立間祥介(徳間文庫)・・2巻

〇『三国演義』安能務(講談社文庫)・・3巻

が該当します。








藤水名子に、そのものずばりの「赤壁の宴」(講談社文庫)がありますね。

周瑜を主人公に、孫策との友情を描いたもの・・・ちょっとBLっぽいのが難ですが。



あと、お勧めは学研歴史群像シリーズ「三国志」上巻です。豊富な地図・布陣・武装のイラストや、解説が載っています。

「三国志」ものを読む前に、座右にしておくととっても便利です。







frogman03544さんが述べた中の陳舜臣の作品はいいですよ

三国志によれば魏、呉、蜀の中で1番蜀が弱く、1番魏が強かったとされてます。 三国志...

三国志によれば魏、呉、蜀の中で1番蜀が弱く、1番魏が強かったとされてます。

三国志演義では蜀の劉備を主人公にして魏の曹操を悪者に書いてありますよね。


それを見てしまっているのでどうしても蜀も何か魏や呉より勝っていたものがあったんじゃないかと思うんですが‥



何か知っているのがあれば教えてもらえませんか?







●三国志によれば魏、呉、蜀の中で1番蜀が弱く、1番魏が強かったとされてます。

●三国志演義では蜀の劉備を主人公にして魏の曹操を悪者に書いてありますよね。

●それを見てしまっているのでどうしても蜀も何か魏や呉より勝っていたものがあったんじゃないかと思うんですが‥



一昔前の「三国志」関連本には『魏が天の時を得て、呉が地の利を得て、蜀は人の和を得た』なんて書かれ方をされていましたが・・・。まあそう単純なモノではないですから。



『三国志演義』については、hamsk1979さんが書いている三国のどこが後漢を継いだ正統か論じた『正閏論』の変遷から最終的に決定づけた南宋の朱子の影響を受けています(北宋時は王安石が魏が正統とした)。単純化してしまうと、北方(もしくは全土)を漢民族が支配していると魏が正統、北方を異民族に支配され、漢民族が南方に避難すると蜀が正統という図式になります。

その影響から、蜀は凄く見えますが国力は、中華の中心地を抑えていた魏には敵いません。

後漢の衰退に対して「後漢の回復」を求めた人、「後漢に替わる新たな国家の樹立」を求めた人によって差はありますが、曹操は明らかに後者ですが、劉備・孫権も後者だったと思われます。

ただ劉備は、「劉氏」と言うことを隠れ蓑に前者を装い、それによって自らを正当化したと言えます。

曹操は後者を選択しながらも、まだ求心力のある後漢皇帝(献帝)を保護するという大義名分を隠れ蓑に正当化します。



●曹操が後漢の献帝から帝位を禅譲されたことですが、献帝は本当は蜀漢の劉備に禅譲したかったんではないでしょうか?



曹氏が禅譲を受けて、魏が後漢を継いでますが段階を踏んで行われたモノです。

本来、禅譲とは「有徳者が有徳者に位を譲ること(血縁相続ではない)」ですが、三国時代に始まる「魏晋南北朝時代」のそれは形式を借りた欺瞞に満ちた行為です。権力の衰退した皇帝が、権力を手に入れた重臣に迫られて譲り渡したのがこの時代の「禅譲」なのです。

このことを踏まえて考えて貰いたいのは、【献帝】は曹操(曹氏)であれ、劉備であれ、孫権(孫氏)であれ、皇帝の位を譲る気など無く、自分の子(もしくは確実に血縁だと分かる者)に位を譲り【後漢を存続】させることを望んでいたのだと言うことです。



長くはなりましたが、もし興味があったら読んでみることをオススメします。

金文京「中国の歴史04三国志の世界」講談社

満田剛「三国志 正史と小説の狭間」白帝社

渡邉義浩「図解雑学三国志」「三国志演義」ナツメ社








正史の流れから、魏が正統なのは事実(真実に非ず)なのですが、後の偉い人の思惑や歴史的ロマンなどが絡まって蜀が正統でも良いんじゃないの?的な流れになります。

その後、三国演義が執筆され現在に至るって感じでしょうか。



簡単に根拠を述べると以下になります。

1.五胡十六国時代、晋を否定する為に「後漢-魏-晋」の流れでなく

「後漢-蜀…」とした人がいた

2.後世に「実は蜀こそが正当なんじゃね?」 という論を発表し

それが長い時間を経て一般に浸透した



以下に、詳細を記述します。長文なので余裕があればで結構です。

【1について】

魏を継いだ晋(西晋)が弱くなると戦乱に突入します。これを五胡十六国時代と

いいます。(三国(魏/呉/蜀)-西晋-東晋/十六国てな感じです)



十六国の中の前趙(当初は漢)を建国した劉淵が

「おいらは劉備の子孫です。ついでに言えば三国時代、蜀が正統なんス」

といい出します。

「後漢-魏-西晋-東晋」×

「後漢-蜀漢-前趙(漢)」○

こういい出した訳です。この説を裏付けるために色々な宣伝をするわけですね。

当然ただのプロパガンダなんですが、時代が遷ろうと「蜀は正統」といった

情報が残り、根付く事となります。



【2について】

これは東晋の習鑿歯が唱えており習鑿歯が「漢晋春秋」という蜀が後漢後の正当な

王朝である旨の記述をしています。

その後、宋代あたりに「正閏論」(三国でどの国が正統か)が論じられました。

「禅譲受けたし最大勢力だったし魏が正統じゃね?」という事になりそうなんですが

朱子学で有名な朱熹(朱子)がストップをかけます。

朱熹の主張では

「劉備見てくださいよ。この人は後漢皇帝の為に戦った人ですよ?

この人が作った国こそが正統デスヨ」

といった蜀漢正統論をブチ上げます。

普通なら「プッ。この人大丈夫?」って感じになるんですが、朱子学の創始者様の

論ですし、朱子学自体がこの時代に浸透した為、蜀漢正統論も受け入れられます。

その後、その論にシンパを受けた羅漢中が三国演義を執筆し、その後はご存知の

通りだと思います。







単純に国力と地理の話といわれてますね。

人口比ではいろいろ言われてますが、魏>呉>蜀 です。また、蜀は河川があるとはいえ交通の状態が悪く、経済の格差が

圧倒的に遅れていたというのが要因のようです。三国志に関連する書物には蜀には優秀な人材が多かったということですが、

魏にも呉にも人はいたわけで、結局蜀は一番最初に滅びました。



蜀が良く書かかれやすい点は、大きな国力の相手に対してよく善戦したという点ではないでしょうか?



あとは、漢帝の悲劇性とか、それ以前の時代を描かれている話で「春秋伝」や「史記」の中で「主君に対する忠誠の美しさ」が書かれているところが多く在ります。中国ではそいうものが美しいものとされているようです。そういう意味では織田信長のような変革者である曹操や魏が悪く言われるのかもしれません。







献帝は曹操に帝位を譲っとらんよ

何か勘違いしてるようだが

劉備は董承をはじめとする曹操の殺害計画には加わったが、献帝は劉備に帝位を禅譲しようなんて考えはない

そもそも、同じ劉氏と言っても劉備は本当に皇室の血筋をひいてるかもわからんから、一族と決まっているわけじゃない(劉備が自称してるだけ)

まず、基本的な事を知ろう







勧善懲悪の面から面白く描くためには、大義名分が必要です。

蜀は、漢中に首都をおき前漢の劉邦の後継であることを掲げることによって正義といえます。



物語の構成の問題にすぎません。曹操自身も簒奪したわけではないので、悪者扱いはおかしいですが、

やり方が過激なので、悪にしやすいです。



蜀が魏に勝っている部分は多くあります。ただし、人材も時宜もなかったといえると思います。

孔明があと50年生きてれば、魏は負けたと思いますがそれはありえません。そもそも、スタートが遅いですよね劉備の。

その時点で負けてるんです。





>献帝は本当は蜀漢の劉備に禅譲したかったんではないでしょうか

微妙ですね。そもそも劉備の出自が怪しすぎるんで。おそらく、劉備にそばにいてもらって

劉備の一族と交配を重ねたりしつつ、後漢を滅亡させない。というのがベストだったんでしょう。

実際、曹操の娘は協の正室になってますよね。







蜀の皇帝が劉氏だったことじゃないでしょうか。

前漢・後漢の皇帝も劉氏で、

劉備は前漢皇帝景帝の子孫だと言っています。

そのため三国志演義では蜀が後漢の正当な後継者としたのでしょう。



ちなみに三国志のほうで魏が正当とされるのは、

後漢最後の皇帝献帝から禅譲を受けたからでしょう。

三国志の国名について

三国志の国名について

漢が滅んでそのあと魏・呉・蜀ですが

魏も呉も大昔の春秋戦国時代にあった国名です。

曹操や孫権が古い国名は嫌で全く新しい国名をつけようなんてことは可能だったんですか?







魏呉蜀というのは、元々地名で、春秋戦国時代に国名となった為に広い地域を指す地名となったものです。

新しい国号をつけるよりなじみの深い地域名を国号にした方が天下にわかりやすく、曲がりなりにも正当性を主張できます。

例えば、前漢を滅ぼして新王朝を立てた王莽はその名も「新」という国号を使いましたが、一代で滅び、漢の、末裔である劉秀が後漢王朝を築きました。

また、三国志の三国が新国号を使わなかった理由というのはそれぞれです。



魏の曹操の場合



曹操は、傀儡とは言え漢の献帝の家臣の形をとっていました。

この為、まず漢の丞相(首相に匹敵する)に付き、さらにその領地の中心でる魏の公(独立性の強い領主)となります。

さらに独立性の高い王の位に登ります。

ただし、ここまではあくまで漢王朝の家臣ですから勝手に新国号は名乗れず、皇帝から魏王の位を授けられた形をとります。

曹操が魏王のままなくなると、子の曹丕は漢の皇帝を廃し魏を全国の国号に昇格させて皇帝に就きます。

この場合も、あくまで漢の皇帝から位を譲られた形をとりました。



蜀の劉備の場合



劉備は漢の皇室であると漢の献帝に認められていた人物であった(実際はかなり疑わしい血統)為、曹操が献帝を傀儡にして魏王をなのると対抗して、漢中王を名乗りました。

漢中王は、漢の初代の劉邦が最初になのった王号であり、事実上漢の後継者に名乗りを上げた事になります。

さらに曹丕が、魏の皇帝に即位すると献帝殺害の誤報もあって劉備は皇帝に即位します。

一般にこの国の国号は「蜀」とされることが多いがこれは通称であり、劉備はあくまで漢の後継者を自称しており国号は「漢」です。

歴史学的には、前述の「前漢」「後漢」と区別して「蜀漢」と呼ばれます。



呉の孫権の場合



呉の孫権政権はその初期において、曹操が漢の皇帝を傀儡にして朝廷を握り、反発する劉備が漢の後継者を称していたのに対し、立場上明確な名目の無い政権でした。

219年、関羽を捕らえて処刑し、蜀と敵対することになった孫権は、曹操の死後に曹丕に接近し、後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認、形だけ臣下の礼をとって、呉王に封ぜられました。

しかし、蜀と再び国交を回復した後、222年頃になると形式上臣従していた魏から離反しまし独自の国を作っていきます。

さらに227年になると、皇帝を自称し完全に独立した事を表明しました。

これは、戦略上漢の後継者として魏を認めていましたが、必要でなくなった為に、「漢が滅んだのだから呉は誰の家臣でもない」という立場をとったものでした。





正統な王朝である漢に対して、三国それぞれが大義名分が立つ様にした国号が、魏・漢(蜀)・呉だったわけです。








中国の王朝の号というのは、勝手に好きな字をつけるものではなく、王朝を開く前に名乗っていた爵位とかにちなむものなのです。

この爵位は地名にちなむことが多かったのです。

例えば漢は、劉邦が漢王だったから。

漢とは現在の西安地方のこと。

同様に蜀とは現在の四川省のこと、呉とは現在の南京地方のことです。

征服王朝の元は、ちなむ名前がないので美字を選んで王朝名としました。これ以後の、明と清も同様です。