三国志か演技、長坂の戦いについて質問です
三国志で曹操が荊州中央部(南郡など)を占拠し、
そこから逃げる劉備と追う曹操。
赤壁につながるクライマックスの序章、長坂の戦いについてすごく疑問があります。
劉備軍には曹操の支配を嫌う百万近い(数はともかく大勢の)民が付き従っている事になっています。
張飛が一本橋で曹操軍を足止めしたのも、その大勢の民を避難させるため、だったと思うんですが、
張飛や趙雲の活躍が語られ、劉備がなんとか長江を渡って曹操軍の追撃をひとまず振り切った後、
演技は孫権軍に舞台が移り、赤壁へと話が転換していきます。
赤壁で大敗を喫した曹操軍を劉備軍は待ち受けて苦しめるわけなんですが、
あれ?じゃあつき従っていた大勢の民はどこへ行ってしまったの?って感じです。
張飛や趙雲の活躍の辺りを最後に民が語られなくなるんですが、
彼らはどこへ行ってしまったのでしょう?
劉備軍が連れて行った形跡がないので曹操軍によって
元の領地に戻されたか、またはどこかの開拓地にでも
連れて行かれたのではないでしょうか?
曹操も荊州を支配下に置くのにかつて徐州で行ったような
大量虐殺は行わないだろうし、人がいてこその領地ですから。
人心をつかむことを第一に考えていたはずです。
最初から劉備の民を連れていった理由はたとえ民を置いてもどうせ追いつかれるから民を使って紛れ込んで逃げるつもりだったみたでした
陳舜臣さんの三国志ですと、元々孔明は、10万の民と夏口まで行く気が無く、寧ろ利用しようと考えていたようです。
孔明は迫り来る曹操軍を前に、大勢の民で、劉備軍を隠して、上手く逃げようという手立てだったらしいです。
で、見事にひっかかり、曹操軍に残ったのは、民から逃げられたという信望の無さ、それと行き場の失った大勢の民でした。
つまり孔明は散々に民を使った後は、曹操に後始末を押し付けた感じですね。
結果、孔明も中々の策士だった。
民のその後、知らん。
少なくとも曹操の性格、戦略からだと屯田のためどこかへ連れて行かれるのではないでしょうか。
もしくは反乱を起こさせないためにバラバラに散らばされたのでは?
とりあえず詳しくは知らないけど、劉備軍が何万もの民をつれていましたが、そのうちの何人かは曹操軍に殺されたと思います。それで赤壁に舞台がうつり、孔明が同盟を申し込みにいくわけですが、その時に劉備軍の兵士は1万はいたはずです。城も無しで1万の兵力を持ってられる訳がない、それ以前に何も無しにどっかに逃げたとは考えられませんね。多分誰かが、劉備を受け入れてそこに呼び込んで資金とかも援助してたんでしょうね。多分、そこの県か州か知らないけど、そこに住まわせたと思います。
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