三国志において魏の国に許褚という猛将がいましたが、曹操の亡き後はどうなったのか、ご存じの方はいらっしゃいますか??
三国志日本語訳
魏志巻十八 李典・李通・臧霸・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温
許褚伝(関連部分)
太祖が崩ずると、許褚は号泣して血を吐いた。文帝(曹丕)が践祚すると万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、(文帝とは)非常に親密であった。はじめ許褚が率いて虎士になった者は征伐に従軍し、太祖はみな勇者であると考え、同じ日に部将に取り立て、そののち武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉は百人余りになり、みな剣客であった。明帝(曹叡)が即位すると、牟郷侯に進み、所領は七百戸、子に爵を賜って一人を関内侯とした。許褚は薨じ、壮侯と諡された。子の許儀が嗣いだ。許褚の兄許定も軍功によって振威将軍になって封ぜられ、王道巡回の虎賁を都督した。太和年間(二二七~二三三)、帝は許褚の忠孝を思い、詔を下して褒めたたえ、また許褚の子孫二人に関内侯の爵を賜った。許儀は鍾会に殺された。泰始年間(二六五~二七五)のはじめ、子の許綜が嗣いだ。
http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wei18-6;lang=Jp;opt...
曹叡の代に死去したそうです。
http://my3594.net/wiki/%E8%A8%B1%E8%A4%9A
曹丕・曹叡と仕え、たしか病死したはずです。
0 件のコメント:
コメントを投稿