2012年3月29日木曜日

三国志について、質問です

三国志について、質問です

赤壁の戦いで、諸葛孔明の策により、曹操の軍から約10万本の矢を、奪ったことって本当ですか?

後、諸葛孔明が風向きを変えたって、本当ですか?

知ってる方は、教えてください。







10万本の矢と風向きを変えたのは小説の創作です。



矢の元ネタは孫権で、ある日船で偵察に出たところ魏軍に片舷を

矢で射掛けられ、その矢の重みで船が傾きそうになったので向きを

変えて反対側にも同じように射掛けさせてバランスを取った、と言う

エピソードから来たものですね。



風向きは変えていませんし、知っていたと言う話もありません。彼の

超人的な活躍や、天才的な先読みはほとんど全て創作です。








三国志演義は創作が多いですが、10万本の矢や「空城の計」の話は創作の典型的な事例です。(武将による一騎打ちの話も殆どが創作みたいです)



既に他の回答者さんから解説がありましたが、この話は孫権が乗っていた船が片方の面にばかり矢を受けて転覆しそうになったために慌てて向きを変えさせてバランスをとった話をヒントにしたようです。



諸葛孔明は赤壁では軍事に関しては殆ど仕事をしていないようです(呉との同盟以外は)。



下記のサイトで詳しい事実が詳細に解説されていますので参考までに読んでみてはいかがでしょうか。



三国志の現実>三国志の嘘>十万本の矢

http://www.geocities.jp/fghi6789/gunji.html#senbonnoya







まぁ、本当ですかね。

諸葛亮の策で、霧の日に、人ぐらいの大きさのワラ人形をたくさん積んだ小舟を何艘も出して、兵士に大声を出させて、曹操の軍に弓を打たせ、ワラ人形に刺させるように、仕組み、刺さった矢を貰ったらしいです。それで、1日で10万の矢を手に入れたらしいです。



風は東南の風が吹く日に合わせて、儀式みたいな事をして、自分がやったかに見せただけです。



説明が下手ですいません。







10万本の矢の話は添付のURLの私の回答を見て頂くとして…。

http://chie.mobile.yahoo.co.jp/p/chie/qa/view?qid=1049448045



元末から明初の時代(西暦1400年頃)に成立したとされる小説『三国志(通俗)演義』には、赤壁の戦いで孔明が曹操軍から10万本の矢を奪う話も、火攻めの前に東南の風を吹かせる話も載っています。

ですがまあ、あくまで小説であって歴史事実ではありませんね(^_^;



西暦290年頃に完成したとされる、陳寿という人物が編纂した歴史書『三國志』には、赤壁の戦いにおいてそういった話は一切出てきません。ていうかむしろ、孔明はじめ劉備の陣営は誰一人戦闘参加してなかったりします。



以下、歴史書『三國志』の記述に従って書きますね。



劉備は長坂で曹操軍の追撃を受けて江陵への退却を諦め、船で夏口に向かい、孫権配下の魯粛の手引きで孫権と同盟する事に成功します。

(この時の使者は諸葛亮が務めています)

そして共同で曹操に立ち向かうのですが、周瑜が率いてきた軍勢はわずかに3万。これを見た劉備は不安になり、2000の軍勢とともに後方に待機して様子を伺う事にしました。

(形としては後詰めの遊軍です)



すると、周瑜は見事に3万の軍勢で自称80万、実質十数万の曹操軍を火攻めで破ってしまったのです。



すかさず劉備はその追撃戦闘に加わります。周瑜とともに荊州の南郡まで進撃し、曹操の後詰めとして南郡の襄陽にいた曹仁を囲みます。

しかし、周瑜が曹仁と1年にもわたる激戦を繰り広げている間に、いつの間にやら劉備軍は南郡を離れ、荊州南部の長沙・桂陽・零陵・武陵を次々と攻略してしまいます。



…ま、そんな感じで、史実では孔明も劉備も赤壁ではなんにも活躍していないのです。







ああそれは別の人が別の時にやったとされる話をまるっきり付け替えてオーバーに脚色したものです。

もちろん天気の話は創作だし、奪ったとされる矢の数も1ケタは違うでしょう。







諸葛亮は、赤壁の戦いにおいてその場にはいなっ方はず。



風向きの件、まったく諸葛亮は関与してません。



十万本の矢についても、かなり怪しい、所詮は三国志演義(羅漢中)の世界ではないでしょうか?



彼は、そんな鬼謀を得意とする軍師ではないとおもわれる。







奪ってないよ。人形に撃ってきたのを集めただけです。地元の地理と天候や天文学を勉強してただけです。

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