2012年3月27日火曜日

三国志の曹操は漢王朝を創業した劉邦の家臣、曹参の子孫だといわれていますが、血...

三国志の曹操は漢王朝を創業した劉邦の家臣、曹参の子孫だといわれていますが、血は繋がっているのでしょうか?

お祖父さんあたりが夏侯家から養子を迎えたとかどうとかと聞きましたが。







曹操の父親、曹嵩といいますが、これが夏侯氏の出で、夏侯惇の父親の弟にあたります。

時の大長秋であった曹騰が、夏侯氏から養子にしたのが曹嵩です。



曹騰を曹参の末裔であると記述しているのは三国志の魏書武帝紀ですが、

後漢書には何故かその記述がないそうです。



このあたり、孫子の末裔だとか中山靖王の末裔だとかいうのと似たようなものなのかもしれません。








曹操の父親は夏候惇達の父親の弟で 曹家の養子になりました







◇支那の家族制度には、二つの禁止事項「同姓不婚(同姓男女の結婚不可)」「異姓不養(異姓男子の養子不可)」が有る。

◇正史には、国家の「正」統を証明する為の「史」書、と言う意味が有る(「正」しい「史」書、と言う意味は無い)。

上記事情を踏まえた上で、本質問を検討する必要が有ります。



全部の正史は、紀伝体と言う体栽を取ります。紀伝体とは、本紀(皇帝年代記)と列伝(臣下伝記)から成る史書の体裁で、正史を編纂する国家から正統と認識された皇帝の年代記が本紀に記されます。正史『三國志』は、著者陳壽が曹氏魏帝国から禅譲を受けた司馬氏晉帝国に仕えた史家だった為、曹氏魏帝国にのみ本紀が設けられます。

陳壽の責務は、曹氏魏帝国の正統を著す事です。正史『三國志』では、曹操に好都合な事情が拡大解釈され、曹操に不都合な事情が黙殺されます。



「曹嵩が夏侯氏出身で夏侯惇叔父」説は、反曹操側が著した『曹瞞伝』に基づきます。其の記載が正史『三國志』に無い為、「曹嵩が夏侯氏出身で夏侯惇叔父」説は間違い、とするのは早計です。曹氏の異姓不養違反が真実でも、違反を正史『三國志』に著せない陳壽の立場を考慮すべきです(司馬氏の処罰を畏れて不記載。他史書も同様)。

官渡合戦前に袁紹は、「曹操の父親曹嵩は氏素性も不明な乞食の子供」と言う内容を含む檄文を発します。後々曹操は、檄文の作者陳琳に「父祖の事を悪様に言う必要は無い」と言いますが、檄文の内容を否定していません。曹嵩の異姓養子の可能性は大です。

曹氏・夏侯氏には通婚関係が有り、曹嵩が夏侯氏出身の異姓養子だった場合、両氏の通婚関係が同姓不婚に抵触する為、曹嵩の夏侯氏出身を否定する見解が成立します。が、夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪等の列伝が『魏志』「諸夏侯曹列伝」に収められた理由を、彼等皆が魏帝国宗室故と解釈すれば、曹嵩の夏侯氏出身の可能性が浮上します。曹氏は、家族制度の禁止事項に無頓着だったかも知れません(禁止事項を全員が厳守したか。禁止事項を全員が厳守する社会ならば、法律無視の犯罪行為は発生せず)。



曹参は、漢帝国の高祖劉邦に平陽侯に封じられ、功臣中最高の封邑一万六百戸を与えられます。漢帝国宗室の劉氏同様、裕福に成れば分家が沢山出来た筈で、曹操が曹参後裔だった可能性も充分有ります。又、曹参後裔の事が捏造だった場合、同姓で同郷で高名な曹参程、曹操の箔付けに好都合な人物は居なかったでしょう。







これは怪しい記述だとされています。分家だとか血の繋がりを完全否定も出来ないでしょうし分からないと言う事でしょう。養子の話も、呉の著者に分かる筈がなく嘘だと言う説や、この時代は違う苗字の家に養子に行くのは悪で、武帝紀や他の歴史書では触れないでいたか隠していた事を呉の著者が曹操を悪く書く為に暴露したから史実だと言う説、菅官で子がいない曹騰(曹操の義理の祖父)は甥の曹嵩(曹操の実父)を養子とした説もあるそうです。この頃に、豪族の官僚への弾圧があり、肺国周辺の豪族の曹氏、夏候氏、丁氏、劉氏は団結しています。世代は少し後ですが丁沖、劉岱らでしょう。(劉岱はこの時代に2人います)曹操と劉夫人の間に曹昂が産まれ、劉夫人が若くして亡くなると、丁夫人が曹昂を我が子のように育てました。曹嵩にも丁夫人がいます。夏候淵の妻は曹操の劉夫人の姉妹の可能性が高いそうです。劉夫人の娘で曹昂の妹は夏候惇の息子に嫁ぎました。曹操の弟の子は夏候淵の子と結婚しました。このように曹操より前は丁氏や劉氏をはさんでならば曹氏と夏候氏は血縁関係があったのかもしれません。曹騰が菅官で築いた財産を全くの他人から養子をもらい、やってしまうとも思えません。曹操の世代以前は直接の血縁関係を避けているようにも見えて、それならば曹嵩は夏候家からの養子のようにも思えてしまいます。逆に全く血縁関係が無かったとも言えてしまいますが豪族達は弾圧に対抗して団結していた筈です。これらは私見ですが私自身の答えもまだ出ていません。











曹嵩は夏侯氏ではありません。

血縁だとする根拠になっているのは「曹瞞伝」です。

これを書いた人は呉の人間で曹操を批判しまくる内容です。

夏侯氏から曹氏に養子に入るということは、異姓養子ということです。

異姓養子はこの時代最悪な行為です。

本当に、曹嵩が夏侯氏であるなら「曹瞞伝」意外の史書に出ていてもいいと思います。



曹氏と夏侯氏は同郷で通婚関係にあり、丁氏と同じポジションです。



曹操は夏侯惇に対していつも気を使っていました。

曹操は寝床に人を出入りさせない人ですが、夏侯惇には入室を許可し、曹仁には許可しませんでした。

これを信頼と取る人もいるけど、単に曹操が夏候惇に頭が上がらなかっただけだと思います。



それと夏侯淵は夏侯惇と兄弟じゃないです。

「族弟」と書いてあったからといって、実の弟なわけではないです。

夏侯惇が将軍号に任じられるのは195年、夏侯淵は212年、年数にして17年の差です。

本当に兄弟なら、気を使っている夏侯惇の弟である夏侯淵へ冷遇とも取れる行為をしないと思います。

曹操は能力主義といいつつも縁戚関係の名族には及び腰でしたから。



この待遇の差は以後も続きました。

袁紹を滅ぼした後は更にそれが顕著です。



夏侯惇=伏波将軍(伝統的将軍号)、河南尹(首都洛陽の行政長官)。法制に縛られない特権

夏侯淵=督軍校尉(食料調達係)



何故、曹操はここまで夏侯惇に気を使うのか?

それは夏侯惇が夏侯氏の棟梁だからです。

仮に曹操の父親が夏侯氏の出なら、ここまで夏候惇に気を使うでしょうか?

曹操の夏候惇への気の使い方は明らかに異常です。

曹嵩は夏侯氏でないと考えるのが自然です。



本題である曹操と曹参の血縁関係について語ります。



「漢書」では、

・哀帝の治世に、曹参の玄孫の孫・曹本始が平陽侯(兗州泰山郡平陽県)に奉じられます。平陽侯の地位は子の曹宏が嗣ぎました。



「後漢書」では、

・建初2年、曹参の後裔・曹湛が平陽侯に奉じます。

・直系の血が絶えたので、和帝が傍系から新たに曹氏を選び容城侯(幽州涿郡容城県)に奉じます。



曹騰は豫州沛国譙県の出身です。

曹参との血縁は眉唾だと思います。

血縁があったとしても、曹参の直系ではないのは確かです。

ちなみに曹騰は皇帝4代仕えたとあります。

このことからして、相当の悪人ということがわかります。

通常、曹騰のように皇帝の側にいた近臣は皇帝の代替わりの時期に失脚するのが当たり前です。

それを4代と言ったら、奇跡というレベルじゃないです。

随分、賄賂も貰っているようですし、ただ、後漢書にはそのことは書かれていません。

これは書けなかったというのが正直な処じゃないかなと思います。



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陳寿が意図的に書かなかったというのは早計です。



陳寿という人物は書くのが憚られる重大事項の場合、目印のようなものを記述をする人ですよ。



そのまま何も考えずに読み進めるとなんともない内容でしょうけど。

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