2012年3月27日火曜日

三国志の質問です。 建安七子のなかでは陳琳の曹操への檄文が有名です。その他に...

三国志の質問です。

建安七子のなかでは陳琳の曹操への檄文が有名です。その他にも孔融、王粲、劉楨のことは多少ですが分かっていますが、

「阮瑀」「応ヨウ」「徐幹」の三人については何も知りません。どなたか彼らの逸話や作品などを御存じでしたら教えてください。







ならばこのページを貼っておきましょう 私が詩などを紹介したり説明するよりも良いでしょう 逸話などもまとまっていると思います



http://sangoku-touitushi.com/chapter13story200.htm



上のページだと応瑒の作品が載ってないので侍五官中郎将建章台集詩の日本語のを探すのに苦労しましたがこっちをどうぞ

PDFですけど

http://www.obs-yamazaki.com/images/sangokushi/Taro12-192.pdf








そんなのWikipediaを見れば普通に載って…ないんだっけ(笑)。



阮ウ[王禹](?~212)は字を元瑜といい、陳留郡の人。竹林七賢の阮籍の父です。若い時に蔡ヨウから学問を学び、曹操のもとで陳琳とともに司空軍謀祭酒となり記室を担当しています。軍事・国政に関する文書や檄文を執筆するのは主に陳琳と阮ウの仕事でした。



徐幹(171~218)は字を偉長といい、北海国の人です。清潔で静かな人柄で、聡明で幅広い知識を持ち、官職・俸禄を軽んじて世間の栄誉に執着しませんでした。曹操の元で司空軍謀祭酒掾属となり、曹丕の元で五官将文学となりました。詩賦に長じており、特に曹丕に文才を愛され絶賛されています。



最後は応ヨウではなく応トウ[王昜](?~217)ですね。字は徳レン[王連]、汝南の人。曹操の招聘を受けて丞相掾属となり、平原侯(曹植)の庶子(=役職名)を経て五官将の文学(=役職名)となりました。祖父の応奉は高名な儒学者として知られ、叔父の応劭は博学多識で多くの著述を記しました。



建安七子では陳琳・徐幹・応トウ・劉テイ[木貞]が同じ217年に亡くなっていますが、これは同じ流行病に揃ってかかったためです。この時の疫病はかなり致死率の高いものだったようで、農村や都市部でも死者が続出し行政が混乱に陥るほどのものだったようです。

残る阮ウは212年に病死、孔融は208年に刑死しています。王粲は217年に呉への遠征に従軍した途上で病死していますが、これもおそらく陳琳らと同じ病だと思われます。

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