三国志によれば魏、呉、蜀の中で1番蜀が弱く、1番魏が強かったとされてます。
三国志演義では蜀の劉備を主人公にして魏の曹操を悪者に書いてありますよね。
それを見てしまっているのでどうしても蜀も何か魏や呉より勝っていたものがあったんじゃないかと思うんですが‥
何か知っているのがあれば教えてもらえませんか?
●三国志によれば魏、呉、蜀の中で1番蜀が弱く、1番魏が強かったとされてます。
●三国志演義では蜀の劉備を主人公にして魏の曹操を悪者に書いてありますよね。
●それを見てしまっているのでどうしても蜀も何か魏や呉より勝っていたものがあったんじゃないかと思うんですが‥
一昔前の「三国志」関連本には『魏が天の時を得て、呉が地の利を得て、蜀は人の和を得た』なんて書かれ方をされていましたが・・・。まあそう単純なモノではないですから。
『三国志演義』については、hamsk1979さんが書いている三国のどこが後漢を継いだ正統か論じた『正閏論』の変遷から最終的に決定づけた南宋の朱子の影響を受けています(北宋時は王安石が魏が正統とした)。単純化してしまうと、北方(もしくは全土)を漢民族が支配していると魏が正統、北方を異民族に支配され、漢民族が南方に避難すると蜀が正統という図式になります。
その影響から、蜀は凄く見えますが国力は、中華の中心地を抑えていた魏には敵いません。
後漢の衰退に対して「後漢の回復」を求めた人、「後漢に替わる新たな国家の樹立」を求めた人によって差はありますが、曹操は明らかに後者ですが、劉備・孫権も後者だったと思われます。
ただ劉備は、「劉氏」と言うことを隠れ蓑に前者を装い、それによって自らを正当化したと言えます。
曹操は後者を選択しながらも、まだ求心力のある後漢皇帝(献帝)を保護するという大義名分を隠れ蓑に正当化します。
●曹操が後漢の献帝から帝位を禅譲されたことですが、献帝は本当は蜀漢の劉備に禅譲したかったんではないでしょうか?
曹氏が禅譲を受けて、魏が後漢を継いでますが段階を踏んで行われたモノです。
本来、禅譲とは「有徳者が有徳者に位を譲ること(血縁相続ではない)」ですが、三国時代に始まる「魏晋南北朝時代」のそれは形式を借りた欺瞞に満ちた行為です。権力の衰退した皇帝が、権力を手に入れた重臣に迫られて譲り渡したのがこの時代の「禅譲」なのです。
このことを踏まえて考えて貰いたいのは、【献帝】は曹操(曹氏)であれ、劉備であれ、孫権(孫氏)であれ、皇帝の位を譲る気など無く、自分の子(もしくは確実に血縁だと分かる者)に位を譲り【後漢を存続】させることを望んでいたのだと言うことです。
長くはなりましたが、もし興味があったら読んでみることをオススメします。
金文京「中国の歴史04三国志の世界」講談社
満田剛「三国志 正史と小説の狭間」白帝社
渡邉義浩「図解雑学三国志」「三国志演義」ナツメ社
正史の流れから、魏が正統なのは事実(真実に非ず)なのですが、後の偉い人の思惑や歴史的ロマンなどが絡まって蜀が正統でも良いんじゃないの?的な流れになります。
その後、三国演義が執筆され現在に至るって感じでしょうか。
簡単に根拠を述べると以下になります。
1.五胡十六国時代、晋を否定する為に「後漢-魏-晋」の流れでなく
「後漢-蜀…」とした人がいた
2.後世に「実は蜀こそが正当なんじゃね?」 という論を発表し
それが長い時間を経て一般に浸透した
以下に、詳細を記述します。長文なので余裕があればで結構です。
【1について】
魏を継いだ晋(西晋)が弱くなると戦乱に突入します。これを五胡十六国時代と
いいます。(三国(魏/呉/蜀)-西晋-東晋/十六国てな感じです)
十六国の中の前趙(当初は漢)を建国した劉淵が
「おいらは劉備の子孫です。ついでに言えば三国時代、蜀が正統なんス」
といい出します。
「後漢-魏-西晋-東晋」×
「後漢-蜀漢-前趙(漢)」○
こういい出した訳です。この説を裏付けるために色々な宣伝をするわけですね。
当然ただのプロパガンダなんですが、時代が遷ろうと「蜀は正統」といった
情報が残り、根付く事となります。
【2について】
これは東晋の習鑿歯が唱えており習鑿歯が「漢晋春秋」という蜀が後漢後の正当な
王朝である旨の記述をしています。
その後、宋代あたりに「正閏論」(三国でどの国が正統か)が論じられました。
「禅譲受けたし最大勢力だったし魏が正統じゃね?」という事になりそうなんですが
朱子学で有名な朱熹(朱子)がストップをかけます。
朱熹の主張では
「劉備見てくださいよ。この人は後漢皇帝の為に戦った人ですよ?
この人が作った国こそが正統デスヨ」
といった蜀漢正統論をブチ上げます。
普通なら「プッ。この人大丈夫?」って感じになるんですが、朱子学の創始者様の
論ですし、朱子学自体がこの時代に浸透した為、蜀漢正統論も受け入れられます。
その後、その論にシンパを受けた羅漢中が三国演義を執筆し、その後はご存知の
通りだと思います。
単純に国力と地理の話といわれてますね。
人口比ではいろいろ言われてますが、魏>呉>蜀 です。また、蜀は河川があるとはいえ交通の状態が悪く、経済の格差が
圧倒的に遅れていたというのが要因のようです。三国志に関連する書物には蜀には優秀な人材が多かったということですが、
魏にも呉にも人はいたわけで、結局蜀は一番最初に滅びました。
蜀が良く書かかれやすい点は、大きな国力の相手に対してよく善戦したという点ではないでしょうか?
あとは、漢帝の悲劇性とか、それ以前の時代を描かれている話で「春秋伝」や「史記」の中で「主君に対する忠誠の美しさ」が書かれているところが多く在ります。中国ではそいうものが美しいものとされているようです。そういう意味では織田信長のような変革者である曹操や魏が悪く言われるのかもしれません。
献帝は曹操に帝位を譲っとらんよ
何か勘違いしてるようだが
劉備は董承をはじめとする曹操の殺害計画には加わったが、献帝は劉備に帝位を禅譲しようなんて考えはない
そもそも、同じ劉氏と言っても劉備は本当に皇室の血筋をひいてるかもわからんから、一族と決まっているわけじゃない(劉備が自称してるだけ)
まず、基本的な事を知ろう
勧善懲悪の面から面白く描くためには、大義名分が必要です。
蜀は、漢中に首都をおき前漢の劉邦の後継であることを掲げることによって正義といえます。
物語の構成の問題にすぎません。曹操自身も簒奪したわけではないので、悪者扱いはおかしいですが、
やり方が過激なので、悪にしやすいです。
蜀が魏に勝っている部分は多くあります。ただし、人材も時宜もなかったといえると思います。
孔明があと50年生きてれば、魏は負けたと思いますがそれはありえません。そもそも、スタートが遅いですよね劉備の。
その時点で負けてるんです。
>献帝は本当は蜀漢の劉備に禅譲したかったんではないでしょうか
微妙ですね。そもそも劉備の出自が怪しすぎるんで。おそらく、劉備にそばにいてもらって
劉備の一族と交配を重ねたりしつつ、後漢を滅亡させない。というのがベストだったんでしょう。
実際、曹操の娘は協の正室になってますよね。
蜀の皇帝が劉氏だったことじゃないでしょうか。
前漢・後漢の皇帝も劉氏で、
劉備は前漢皇帝景帝の子孫だと言っています。
そのため三国志演義では蜀が後漢の正当な後継者としたのでしょう。
ちなみに三国志のほうで魏が正当とされるのは、
後漢最後の皇帝献帝から禅譲を受けたからでしょう。
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