三国志の劉備についてです。疑問があります。194年頃に曹操が父親殺されて怒って徐州に攻め込んだ時なぜ劉備は和睦の道を選んだのでしょうか?それに使者が張飛というのはおかしいと思いませんか?
これは私の予想ですが劉備は和睦と見せかけて張飛に曹操暗殺を狙っていたのではないかと思います。もし本当に説得する気があれば劉備本人か関羽を使うと思います。間違っても張飛に任せないと思うのです。まとまる話もまとまらないと思います。その後呂布が曹操の本拠地を奪いとったから引き返したというのは予想外の事態であって、劉備側から見て始めから分かるものではありません。本当は密かにもし曹操が和睦の話に応じなければ劉備は張飛に暴れて曹操を殺してもかまわないと指示したのではないか。それならば緊急事態で劉備が自信満々に和睦を主張するのは納得できます。張飛はそれ以前に董卓にも襲いかかろうとした前科ありますし。止められてしましたが。となると圧倒優勢に見える曹操もその時は冷静さを欠いており、本拠地盗られるアクシデントが発生しなくても意外に曹操個人としては命が危なかったのではないでしょうか。赤壁みたいに大軍を率いた優勢の立場の曹操は意外に弱いですし、戦いは桶狭間みたいに大将の首をとれば勝ちなのですから。あくまで予想ですがなにか裏があるとしたらはっきりいって劉備玄徳恐ろしいと思います。
裏読みのしすぎだと思いますが、そういう考え方もできるのではないですか?
否定はしませんよ。
>劉備は和睦の道を選んだのでしょうか?
これははっきりしている。戦っても勝てないから。
>当は密かにもし曹操が和睦の話に応じなければ劉備は張飛に暴れて曹操を殺してもかまわないと指示したのではないか。
・・・で張飛はぶっ殺されて使い捨てだと?いわゆる鉄砲玉のチンピラ扱い?
曹操がいなくても後継者が劉備をひねりつぶせちゃいますから。しかもそうなると全然劉備に大義がないから、外からの援軍なんか期待ができませんね。
当時の劉備は平原の相で、徐州へはあくまで援軍に過ぎません。
曹操を撤退させるのが目的です。
もし曹操を討ち取ったところで、本軍は兗州に残っていて、簡単に奪えるとは考えなかったでしょう。
むしろ彼は早めに講和に持ち込み、平原に帰還したかったのが、当初の本心ではないでしょうか。
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