三国志の国名について
漢が滅んでそのあと魏・呉・蜀ですが
魏も呉も大昔の春秋戦国時代にあった国名です。
曹操や孫権が古い国名は嫌で全く新しい国名をつけようなんてことは可能だったんですか?
魏呉蜀というのは、元々地名で、春秋戦国時代に国名となった為に広い地域を指す地名となったものです。
新しい国号をつけるよりなじみの深い地域名を国号にした方が天下にわかりやすく、曲がりなりにも正当性を主張できます。
例えば、前漢を滅ぼして新王朝を立てた王莽はその名も「新」という国号を使いましたが、一代で滅び、漢の、末裔である劉秀が後漢王朝を築きました。
また、三国志の三国が新国号を使わなかった理由というのはそれぞれです。
魏の曹操の場合
曹操は、傀儡とは言え漢の献帝の家臣の形をとっていました。
この為、まず漢の丞相(首相に匹敵する)に付き、さらにその領地の中心でる魏の公(独立性の強い領主)となります。
さらに独立性の高い王の位に登ります。
ただし、ここまではあくまで漢王朝の家臣ですから勝手に新国号は名乗れず、皇帝から魏王の位を授けられた形をとります。
曹操が魏王のままなくなると、子の曹丕は漢の皇帝を廃し魏を全国の国号に昇格させて皇帝に就きます。
この場合も、あくまで漢の皇帝から位を譲られた形をとりました。
蜀の劉備の場合
劉備は漢の皇室であると漢の献帝に認められていた人物であった(実際はかなり疑わしい血統)為、曹操が献帝を傀儡にして魏王をなのると対抗して、漢中王を名乗りました。
漢中王は、漢の初代の劉邦が最初になのった王号であり、事実上漢の後継者に名乗りを上げた事になります。
さらに曹丕が、魏の皇帝に即位すると献帝殺害の誤報もあって劉備は皇帝に即位します。
一般にこの国の国号は「蜀」とされることが多いがこれは通称であり、劉備はあくまで漢の後継者を自称しており国号は「漢」です。
歴史学的には、前述の「前漢」「後漢」と区別して「蜀漢」と呼ばれます。
呉の孫権の場合
呉の孫権政権はその初期において、曹操が漢の皇帝を傀儡にして朝廷を握り、反発する劉備が漢の後継者を称していたのに対し、立場上明確な名目の無い政権でした。
219年、関羽を捕らえて処刑し、蜀と敵対することになった孫権は、曹操の死後に曹丕に接近し、後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認、形だけ臣下の礼をとって、呉王に封ぜられました。
しかし、蜀と再び国交を回復した後、222年頃になると形式上臣従していた魏から離反しまし独自の国を作っていきます。
さらに227年になると、皇帝を自称し完全に独立した事を表明しました。
これは、戦略上漢の後継者として魏を認めていましたが、必要でなくなった為に、「漢が滅んだのだから呉は誰の家臣でもない」という立場をとったものでした。
正統な王朝である漢に対して、三国それぞれが大義名分が立つ様にした国号が、魏・漢(蜀)・呉だったわけです。
中国の王朝の号というのは、勝手に好きな字をつけるものではなく、王朝を開く前に名乗っていた爵位とかにちなむものなのです。
この爵位は地名にちなむことが多かったのです。
例えば漢は、劉邦が漢王だったから。
漢とは現在の西安地方のこと。
同様に蜀とは現在の四川省のこと、呉とは現在の南京地方のことです。
征服王朝の元は、ちなむ名前がないので美字を選んで王朝名としました。これ以後の、明と清も同様です。
0 件のコメント:
コメントを投稿