2012年3月29日木曜日

三国志の国名について 漢が滅んでそのあと魏・呉・蜀ですが 魏も呉も大昔の春秋戦...

三国志の国名について 漢が滅んでそのあと魏・呉・蜀ですが

魏も呉も大昔の春秋戦国時代にあった国名です。


曹操や孫権が古い国名は嫌で全く新しい国名をつけようなんてことは可能だったんですか?







国号を変えること自体は中国の歴史上ではいくらか例が見られます。

もっともメジャーな例は後金→清でしょうかね。

他にも古くは西周・春秋時代の唐→晋もありますし、五胡十六国時代の前趙も元は漢を国号としていました。

ゆえに国号を変更すること自体は絶対にダメというわけではありません。



そもそも曹操も孫権も本拠地が魏地方や呉地方にあったので、魏王なり呉王なりに封建されたという経緯があります。

献帝が曹操を魏公・魏王に封建したのも、本拠である鄴(ギョウ)が戦国時代の魏の故地だからです。

同様、孫権も本拠とした建業が春秋時代の呉の故地ですから、魏は孫権を呉王に封建したのです。

本拠とする地方によって国号を定めるのが当時の常識でしたから、特別な理由がない限りは変更しないでしょうね。

ですから曹操も孫権も国号を変更しようなんて考えなかったと思いますよ。








kj410goto_globeさんのおっしゃる通りですね。曹操が漢(後漢)から「魏王」に封ぜられたから曹氏の王朝は「魏」になり、孫権はその魏に臣従を誓って「呉王」に封ぜられたから孫氏の王朝は「呉」になりました。

命名の由来が本拠地の地名であるというのも皆さんおっしゃる通りです。



ちなみに劉備の「漢中王」は自称です。曹操に勝って漢中を得たことで、諸葛亮ら配下に推される形で正式な任命もなく名乗りました。まあ形式的に許可(事後承諾)を求める上表は出してますが。

で、曹丕が献帝に禅譲させて魏王朝を起こし、献帝が弑逆(臣下が主君を殺すこと)されたという情報が伝わったと称して漢の帝位を継ぎました。

まあ実際は誤報(捏造?)だったんですが(^_^;



通常、劉備の王朝は「蜀」と呼ばれますが、これは本拠地である成都周辺が「蜀」と呼ばれる土地だからで、やはり魏や呉と同じ命名です。しかし劉備はあくまでも「漢(後漢)の帝位に就いた」のであり、蜀王になった訳ではありません。ですので「蜀漢」とも呼ばれますね。







多少の例外はありますが、元よりも前の中国の国(統一王朝も戦国時代、五代十国などの地方王朝も)は、その国の首都の地域の通称を国名にしています。

したがって、中国の歴史では同じ名前の国が沢山出てきます。

混乱を避けるために、世界史では「前」、「後」、「東」、「西」、「南」、「北」をつけることもありますが、当時は単純に「周」、「漢」、「宋」などといっていたようです。







たしか、呉は五代十国の時代にもあったよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E...



地域を示す言葉じゃないかな。

0 件のコメント:

コメントを投稿