三國志の曹操について質問ですが
曹操は中国歴史上でも屈指の評価を与えられている人物ですが結局曹操は中国を統一できなかった訳ですがそれ程の評価を与えられている人物
がなぜ生存中に中国を統一できなかったのでしょうか?
曹操の評価が随一かどうかはともかく彼が非常に優秀な人物である事は彼の挙兵後~赤壁時の実績を見れば明らかです。
ここで問題となるのは曹操の優秀さのタイプが中国の様な広大な版図を統一するには向いていない事が挙げられると思います。
基本的にTOPが実務的な面で非常に優秀になると、部下は具体的な課題遂行は優秀だが自分で判断して責任を自分でとる事が出来る能力に欠けがちになります。
つまり曹操一人が各地を転戦して主だった敵を撃破していった結果、領土や軍の規模が大きくなりすぎて彼一人の能力でカバーできる範囲を超えてしまったのが原因になります。
彼個人の戦場では比較的良い戦績を残していても彼のいない所では押し込まれて結果プラスマイナスゼロとなり統一事業が進まないというわけです。
彼が中原エリアで、呂布、袁昭、袁術、劉備あたりとやっていたときは機動力でなんとかやってきたのですがさすがに中国全土となると信頼できる司令官に一地方の攻略を任せる必要があります。
曹操は自分が優秀である反面、方面軍司令官に値する人材を得る事が出来なかった事が統一を遅らせた原因の一つです。
その意味は彼の軍事的な優秀さは方面軍司令官としての能力であって、それゆえ部下に同じタイプの能力をもった人間を必要としなかったと言う事でもあります。
同様の事はナポレオンも同じで、比較的狭い地方のみで戦っていた時期は無敵でしたが、東西南北同時に敵を抱えると、彼は勝利しても部下が敗北するため次第にジリ貧になり退位に追い込まれています。
中国くらい広大な版図になると、始皇帝や劉邦のように自分は軍事的な能力は発揮しない(もしくはできない)が部下に有能な軍司令官を抱え使いこなしていくタイプの君主が有利です。
いわゆる君主としては「兵士を統率する能力」よりも「将軍を統率する能力」の方が重要と言う事でしょう。
曹操はそういう能力が若干掛けてしまったため自分個人の能力の限界までしか版図を広げられなかった、そういう事です。
そういう意味では劉備の方が「高祖(劉邦)の風あり」と呼ばれている事からも中国全土統一の候補としては(タイプ的に)より適していたかもしれませんが、残念な事に彼は人生のほとんどを個としての軍事能力が必要とされる狭い地域の戦場についやしてしまったため時間切れになっております。
曹操って、そこまでの評価を受けてますかね・・・?
三国志人気が異常加熱する日本において、たかが三すくみの
地方政権乱立期をよりドラマチックに盛り上げまくった結果
最大勢力を誇った曹操を異常に評価する風潮が高まってるだけだと思います。
日本人ほど、曹操を高評価してる民族は居ないと思いますよ。
中国は現在でも曹操を評する時に「奸」「梟」の文字が取れることは
ほぼありません。
天下を統一できなかった人物はそのくらいの力量だったということなのでしょう。
逆に日本の三国志観は曹操に対しては度が
過ぎるほどに弁護的になりすぎなんですよ。
曹操は中国歴史上でもかなりの評価があたえれるぜ。三國志唯一の大物だな
◆漢の臣下だったからです。
曹操はあくまで漢の臣下として生涯を終えています。
その間、孫権も劉備も献帝に叛旗を翻したことはなく、
まして皇帝を僭称したこともありません。
もちろん、呉や蜀(漢)も建国されていませんでした。
確かに曹操は漢の最盛期の領土を回復できませんでしたが、
それは内憂を差し置いてまで辺境の賊を討伐する
必要がなかったからです。
しかしまた、曹操を魏の武帝として捉えた場合は、
中原を制した曹操は中国を統一していたといえます。
(「中国」とは、狭義で「天子の許」、広義で「中原」)
中国正統王朝の領土は常に変化しており、
三国時代の中国は魏であったというだけのことです。
その証拠に当時の呉や蜀の人々は、
魏のことを「中国」と呼んでいました。
このことを分かりやすく現代に置き換えて考えてみます。
現在は二つの中国が存在しています。
「中華人民共和国」と「台湾(中華民国)」です。
それぞれが中国の正統政権だと主張しています。
しかし現代において全世界的に、
「中国(China)」といったら普通は中華人民共和国のことを指します。
中華人民共和国に対して、
「あなたは台湾を統一できていないので中国ではありません」
という人はまずいないと思います。
(毛沢東が曹操を高く評価しているのは台湾の存在も関係?)
日本政府は正式に台湾を国として認めていませんが、
台湾と外交関係をもっている国は現在世界で23ヶ国あります。
でもそれは(基本的に)、
「台湾(Taiwan)」という国を認めているのであり、
中国とみなしている訳ではないのです。
また、モンゴルが独立した分、
中華人民共和国の領土は前政権より縮小しています。
三国時代も同様です。
呉は「呉」、蜀(漢)は「蜀(漢)」にすぎません。
漢から禅譲を受け、正史で正統と認められている魏こそが、
紛れもない中国なのです。
■補足に関して:
そんなことはありません。
漢の高祖だって人材不足のまま偉業を達成しています。
もちろん、末端までまんべんなく人材が揃っているに
越したことはありませんが、
偉業の達成に重要なのはむしろ条件と状況です。
曹操のもと(正確には漢のもと)には、
優秀な軍師(少なくとも諸葛亮レベル)が105人おり、
将軍たちをも使い熟し、さらに末端までの人材も充分でした。
だからこそ逆に曹操は内憂を抱えていたのです。
まして曹操はこのとき、
過去400年も続いた「儒家士族」社会から
「法家寒門」体制への改革を行っていました。
曹操には、孫権や劉備といった辺境の賊より
改革に反発する内部の人間、
特に特権階級となっていた士族への対応の方が重要でした。
それに曹操存命中は孫権も劉備も名目上は漢の臣下です。
このとき孫権や劉備が皇帝を僭称してくれていたら、
内部も結束して曹操は憂いなく賊を討伐したことでしょう。
繰り返しますが、曹操が生きていたときは、
孫権も劉備も名目上は漢の臣下です。
馬騰もよく叛乱を起こしましたが、
それでも結局漢の臣下だったのとまだ同じ状態でした。
そもそも曹操が死んでから起こった事象に対して、
曹操に「何で統一してないんだ」と難癖を付けるのは
あまりにも無茶な要求です。
一番大きいのはマンパワーの不足だと思います。後漢の頃は最盛期
で4000万以上の人口でした。それが三国志の頃は魏呉蜀を合せて
も400万ちょい。
魏はこの内250万ぐらいを占めていましたが、人口の10分の1が兵力
として維持できる限界、と言われていたことを考えると最大で25万程、
屯田民などで目に見えない人口も多かったでしょうがその分を加味し
たとしても50万程度が限界でしょうか。
これらの兵力を維持し続けたとしても例えば北方の異民族のため、呉
との境界、蜀との境界、西方の異民族たちへの押さえとして兵を駐屯
させなければなりません。
そうすると一つの戦線に投入できる兵力は10万程度が限界となります。
この程度の兵力では簡単に一つの地域を制圧することはかなり難しい
と言わざるを得ないでしょうね。
これぐらいなら呉蜀でも揃えることが可能な兵力で、余程上手く戦力を
削ぐことができないと制圧する隙はなかったと考えられます。実際、蜀が
滅亡するきっかけは段谷の戦いで蜀が大敗し、優秀な軍人が多数失わ
れたことから始まっていますからね。
正面から投入できる兵力が互角近ければこう言う事態が生じない限り
簡単には制圧できないものなのです。元々中原は人口が多かったので
その時代であればそんなこと考えるまでも無く圧倒できていたと思うので
すけどね。
曹操は歴史上名高い人物の1人ではありますが、長い中国史の中でも「屈指の評価」とまでは言えないでしょう。
政治家として、武人として、なおかつ文人としてどの分野でも高い評価は受けており、ここまで兼ね備えている人物は長い中国史の中でも少ないとは言えますけどね。
その曹操が中国を統一できなかった理由はいくつか挙げられます。
(同時代にタイプの異なる英傑が出てきてしまった)
もちろん、劉備や孫氏三代(堅・策・権)を指します。
赤壁が間違いなく大きなターニングポイントとなり、赤壁で勝っていれば劉章は自壊し、再統一はできたでしょう。
赤壁の敗戦が劉備飛躍のキッカケを作ってしまい、流浪の小軍団だった劉備が本物の軍閥として成長してしまったが為に、再統一の機運は遠のきました。
(後漢末~隋による再統一までの社会背景)
中国が大動乱~統一に至るには、秦末漢初、新~後漢のように、統一政権が民衆を圧迫した事によって社会全体が乱れ、一般民衆が雪崩を起こしたように反乱に参加すると比較的短期間で収束するというパターンを描いています。
後漢は中央政権が立ち枯れ同然に衰え、社会全体を圧迫しないまま地方の有力者が軍閥という形で割拠し三国時代に入っています。
三国時代は魏・呉・蜀ともこの割拠状態を内包していましたので、国としては非常に支配効率が悪い状態となっていました。
つまり、各国の皇帝といえど諸豪族に推戴された形のようになっていたので諸豪族に配慮する必要があり、兵力もこの諸豪族たちの私兵が主力となっていました。
だからこそ、魏は北方の経略を行って遊牧民族たちの移民政策をとり(これが後に五胡十六国の大動乱につながる)、蜀は諸葛亮の南方遠征、呉も同じく人狩りの南方遠征をしました。
国としては三国でも、その内部は諸豪族たちによる虫食い状態で支配効率が非常に悪かったわけです。
この問題は何百年も解決されず、隋が科挙の導入によって初めて問題解決の端緒が生まれ、唐・太宗の時に豪族狙いうちをして豪族の力を弱めて漢以来、久しぶりに中央集権体制が確立できました。
(曹操の覇気の衰え)
それでも赤壁で勝っていれば形の上では再統一はできたと思いますが、赤壁の敗戦以降、曹操は目立って覇気が衰えます。
再統一以前に、文人でもある曹操は漢を滅ぼすべきかどうか随分迷った形跡があります。
劉備との漢中争奪戦でも是が非でも漢中を保持する気概がありませんでした。
官渡の戦いで見せた、不利でも戦機とみれば遮二無二戦うという気概は赤壁以降の曹操には全く見られません。
基本的に防衛戦略一本となります。
以上3点が曹操が再統一できなかった理由でしょうか。
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