三國志について質問します。赤壁の戦いに於いて孔明が東南の風をおこし、火計により、曹操軍は壊滅したと演義ではありますが、果たしてそうなんでしょうかね?
三国志演義ではそうですよね。正史では呉の国のだまし討ちと疾病の流行で魏の軍勢は退却したということになっているらしいですよ。
周瑜の部将の黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を進言した。そして自ら曹軍に対し偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。
『三国志』呉書周瑜伝の注に引く『江表伝』には、この時、周瑜らは渡渉し陸上から曹操の陣に追撃をかけ、曹操軍は潰走したと書かれている。
『三国志』蜀書先主(劉備)伝には、「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」と書かれている。
『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利」としか書かれていない。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した」と書かれている。
曹操は敗残兵をまとめて撤退した。疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が亡くなった。『三国志』呉書呉主(孫権)伝には、曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなったと書かれている。
周瑜・劉備らは更に追撃し、南郡まで兵を進めた。曹操は慣れない江南の地で疫病の流行に悩まされたこともあり、江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは北方に撤退した。
「武帝記」(魏)には
「陣内に疫病が大流行し、多数の死者を出した為にやむなく兵をひき帰還した」と。
これは「呉主伝」(呉)にも「先主伝」(蜀)にも同じ述懐があります。
では、疫病とは何か。
それは長江に生息する巻き貝(諸々の貝類)を媒介とする寄生虫による風土病です。
症状は重く、抵抗力の乏しい者は死に到るそう。
主に戦線で奮闘していた孫権軍は長江の海産物を食べ慣れて免疫があり無事だったのです。
そこで周瑜(時の司令官)は炎上させた船を曹操軍にぶつけ(南東の風も加え)大火計をもって打ち破ったのです。
正史では詳しい記述がありません、曹操(魏)軍に風土病が流行り火を放ったという説もあり本当に孫権・劉備(呉・蜀)連合軍が火攻めを仕掛けたのか分かりません。
孔明の出番を省けば、大体があっているのですが、
ある記述には、疫病の流行で士気が低下し、軍船に死体を載せて燃やし、撤退したと書かれていました。
これが負け惜しみなのか真実なのかは定かではありませんが、
ここからは推測ですが、元々撤退寸前だった曹操に周瑜が攻撃を掛け、その戦いを見ていた曹操が、士気が低すぎて、戦いを継続出来ないと判断して、撤退したのではないでしょうか。
どれが正解かは定かではないというのが現状ですね…(汗)
そうですよ^^
中国の三国志歴伝4の記載にあります。
演技も忠実に歴伝に沿って作られて、
人の性格までもが綴られているみたいです。
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