三国志について、あまり知らないのですが、レッドクリフ2で戦いで曹操は行かされていましたが、本当に撤退せずにあんな場面があったのでしょうか。また赤壁の戦い後、三国はどのような戦さで誰が世を平定したのでし
ょうか。
三国志は歴史を題材にした小説です。
頭から信じてはいけません。
負けたら滅びるのは呉と劉備の連合軍の方です。
不利を承知で最後まで戦えなんて普通言いませんし、仮に全滅しても漢(魏)の本土は安泰なのにそこで死を覚悟して戦う理由はない。
実際勝ったほうは勢いにまかせて漢に攻め入るということはできなかったし。
三国は魏と蜀が小競り合いをやっていましたが世代交代し、晋を建国した司馬氏がいる魏が蜀を滅ぼしました。
壮絶な戦いがあったというより平和ボケした蜀に人材がおらず戦う気もなくて魏に吸収されたようなものかな。
劉備の息子は魏でのんびり暮らしました。
呉は魏を滅ぼした晋によって滅ぼされましたが、こっちも平和な中で権力争いや世継ぎ争いが起きていましたからね。
三国とも創始者は偉大だったけど良い後継ぎに恵まれなかったと思います。
歴史書の各記述を総合すると、赤壁の戦いの主な戦闘は水上のみで、上陸しての戦いは無かったようです。
レッドクリフにも有った描写ですが、曹操の軍は疫病でまともに機能せず、水上の戦闘で敗北したのをきっかけに見切りを付け、本格的な決戦となる前に、早々に軍を引いています。
三国志にもいくつかの種類があり(って言ったら語弊が生じますが…)、細かい部分はそれぞれ違うように描かれています。
が、赤壁の戦いの後、一般的?には次のような流れでしょうか。
魏が荊州北部まで撤退⇒呉が荊州南部への侵攻を画策⇒周愉病死⇒荊州南部は劉備の手中に⇒劉備が益州へ侵攻⇒蜀漢を建国⇒魏呉蜀の三国鼎立時代へ⇒呉が荊州南部に侵攻⇒関羽戦死⇒呉蜀の争いが表面化⇒蜀が荊州から撤退⇒曹操死亡⇒劉備死亡⇒蜀の数度の北伐(魏への侵攻)⇒五丈原の戦いの最中に諸葛亮死亡⇒蜀の滅亡⇒司馬一族の台頭⇒魏の滅亡と晋建国⇒呉の滅亡⇒三国時代の終り
ということで、実質的に天下分け目の決戦となったのは、五丈原の戦いと思われます。
>本当に撤退せずにあんな場面があったのでしょうか
実際はありませんでした。あったらその場で殺しあっておしまいです。
三国志演義では、劉備軍は赤壁の戦いに参加せず、撤退した曹操軍を待ち受ける作戦を取ります。
そして第1弾趙雲、第2弾張飛、第3弾関羽と配置します。1段、2段でぼろぼろになった曹操の残兵は、最後に待ち構えていた関羽の前に戦意を喪失します。ここで曹操は関羽に見逃してくれるように頼みます。以前一度捕虜になるも曹操の計らいで劉備のところへ戻れた恩がある関羽は、曹操を見逃します。
レッドクリフでは、このくだりを、場所を赤壁本陣、対峙者は曹操軍、呉軍、柳眉軍のオールスターキャストとし、曹操を見逃す役をシュウユにしているのです。まぁ、映画ゆえに時間制限があることと、オールスターキャスト勢ぞろい、という趣旨でしょう。
実際の軍は、船団を焼かれその火が陸上の陣地に飛び火したため、それだけで算を乱して逃げ出します。
曹操は敗残兵を率いて、後方拠点の城へ逃げ延びました。英雄ってのは逃げっぷりも見事なんです。
三国志演義では、曹操が率いていた100万の大軍が、都に戻る時には1000をきるまでになったとかかれています。
赤壁の戦いの直後、呉は曹操の支配地域である益州へ攻め込みますが攻めあぐねます。その隙を突いて孔明は逆に益州の拠点を押さえて、結果として劉備はおいしいところをとってしまいました。赤壁で勝った呉軍は結局占領地を得ることはできないという結果になり、シュウユはそれが赤壁以前からの孔明の長期戦略であることに気づき、憤死します。
この後呉と劉備の謀略合戦は表向き平和裏に水面下で進みます。
そして、益州を足がかりに、劉備は蜀を救援するといって軍を乗り入れ、そのまま占領してしまいます。こうして蜀ができました。
益州はその後、シュウユの後任のリクソンの策略により呉に奪われます。この時益州を守っていた関羽も捕らえられ処刑されます。
これがきっかけで蜀は呉に復讐戦を挑みます(この準備中に張飛も暗殺される)。孔明は止めましたが劉備が聞かず、結局孔明は留守番となり、劉備は布陣のまずさをリクソンに突かれ敗北します。落ち延びた偏狭の城で劉備は病没。
一方魏(になる前の曹操支配の漢)と呉は仲良くなります。先の処刑された関羽の首は曹操に送られ、曹操はこれを丁重に弔いますが、そのご病没します。一説には関羽のたたりとも。
曹操の死後長男が後を継ぎ漢を廃して魏を立てます。これに呼応して蜀の劉備と呉の孫権も皇帝を名乗り、ここに名実ともに三国時代となります。先の蜀と呉の戦争はこの少し後です。
劉備死後の蜀は孔明が中心となって漢復興のため魏を攻めますが結局かないませんでした。孔明の死後蜀は魏に攻められ降伏します。その後魏は、孔明との戦闘で魏を守った司馬イの孫により廃され、晋が立てられます。この晋が呉をも滅ぼして天下統一を成し遂げます。
しかし晋王朝は2代目以降暗愚な後継者やそこから発した動乱により乱れ、時代区分としては「五胡十六国時代」とよばれ晋と呼ばれることはあまり無い。結局晋が立ってから460年後隋が滅びるまで、短命国家、群雄割拠、国内動乱が続き、唐が立ってやっと中国は落ち着くことになる。
最後の部分レッドクリフのまったくの創作です。正史や演義にも一切似たようなことさえ書かれていません。
あのような場面が例えあったとしても、逃がすことなんてあり得ません。
赤壁の後ですが、劉備は蜀の地を獲得して、魏・呉・蜀(蜀漢)の三国併立時代に入ります。そして蜀は呉と協力して魏と対抗するのですが、呉の裏切りによって蜀は滅びて、呉は魏に降伏します。曹操の跡を継いだ息子が漢の皇帝を廃して自ら皇帝となり天下を統一しましたが、直ぐに家臣により政権は乗っ取られ晋に代わられました。
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