2012年3月13日火曜日

三国志の曹操が出世できた本当の理由は何でしょうか。ただの運?

三国志の曹操が出世できた本当の理由は何でしょうか。ただの運?

三国志はフィクションだというのは分かっていますが、本当の主人公とも言われている曹操のすごいところがよくわかりません。覇道だとか恐怖政治だとか言われていますが、劉備が参謀、兵隊、住民からの人望があってもあれだけ苦労したのなら、結局出世するのもしないのも時の運なのかなと思います。







運をつかむのも実力の内です。



有能な家臣が多いのは事実です。しかし有能な家臣ほど主君が有能か無能か見極めます。



有能な家臣が集まりやすい環境づくりができる、適材適所でその能力を発揮させてあげることができる。



これが主君として有能なことではないでしょうか。



「士は己を知るもののために死す」といわれる通りだと思います。








四大軍師と夏候惇や張寮や許ちょ

とウンのおかげですね







あなたの言う三国志とは小説の三国志演義のことですよね?

確かに演義での曹操は狡猾で冷酷な君主として描かれていますが、国が正式な歴史書である正史三国志では彼の優れた点がきちんと記されていますよ。

ちなみに正史の方はフィクションではありません(もちろん、かなり古い書なので多少の脚色はされているでしょうが)



質問の回答は正史の記述を元にさせていただきます。





>曹操の軍師としての才能があったとしても、どういうところがすごかったのかあまり語られていないような印象を持ちます



漢皇帝の奉戴、屯田制の導入、青州兵の吸収、求賢令などを見れば分かるように、先見の明は当時の他の群雄に比べれば抜群に優れていたと思います。



また彼の類稀なる軍才も曹操自身が兵を率いたときの勝率を見れば分かります(確か8割近いです。劉備の勝率は2割くらい。)

ちなみに現在伝わっている兵法書『孫子』は、孫武が書いた原文に曹操が脚注を加え編纂することでより実用性を増したもので、後世の兵法家にも高い評価を受けています。





>有能な参謀や軍人がいたと思いますが、劉備の方が徳があって多くの有能な人が集まったような。



そんなことないですよ。曹操陣営の方が優秀な人物が多く層も厚かったと思います(正史に諸葛孔明が魏の人材層の厚さに溜息をつく記述があります。)。上で挙げた皇帝奉戴や屯田制も、彼の配下の進言によるものです。

恐らく、あなたがそう考えるのは三国志演義の影響を強く受けているからでは?演義では魏の将は蜀の噛ませ犬にされてますから・・・。

劉備が世間で言われるように『徳の人』と評価されるようになったのも演義での脚色が原因で、正史においての彼は反乱分子の一群雄に過ぎません。





これらのことを見ても、曹操が天下に覇を唱えたのは実力に因るところが大きいと言えるでしょう(もちろん運もあったでしょうが)

彼の凄いところは当時の常識にとらわれず、次々と斬新な政治や軍事改革を行ったところにあると言えます。

ある歴史研究家は、「三国志において、曹操と他の群雄では見えているビジョンが違った。彼だけ全く別の次元のゲームをやっていたようなものだ。」と語っています。







出身が低すぎたり(曹操は「濁流」でも名門)、流れ矢にあたって戦死したら

どんな才能も役に立ちません。

圧倒的な運もあったと思います。

人望は、劉備より曹操の方があったと思います。

ゲームなどでは講談本で活躍しない人は能力が低く、

またその人の背景・官位などは反映されない(王族も侠客も数値が違うだけ)のですが

曹操の配下は質量ともに優れ、また(大粛清を度々行う割に)

旧体制や、敗れた軍閥の人物からも支持されていたと理解しています。







才能や家柄、運もありますが、曹操の行った戦略は先人の始皇帝や

前漢を建国した劉邦、漢を再興した劉秀の戦略を踏襲し、おおよそ

実行できたのが出世できた理由かと思います。



人材を募集する際も、劉邦に仕えた元マダムキラーの遊び人、

陳平(陰謀に長けた人材だった)並に素行の悪い人物でも才能があれば

取り立てると言い。



物資の豊富な司隸校尉や荊州を早めに抑えたことで、



勇猛で知られる楚国の猛攻を封じた始皇帝、

史上最強と呼ばれる覇王、項羽を仕留めた劉邦、

名将の子孫を破り、強大な戦力を誇った難民・赤眉軍を食料で

手なずけた劉秀、



のように、戦力差を物資でカバーできるアドバンテージを得た

この二つが大きいかと。あの項羽ですら、食料がなければ

軍を維持できなかったので、遥かに劣る蜀漢はこの戦略を

実行されてた時点で詰んでたと思います。



ちなみに兵糧攻めや持久戦は、もともと漢王朝の専売特許でした。

(劉邦、劉秀の他に、景帝・劉啓の時代に起きた

呉楚七国の乱でも使用)、五丈原の戦いではまさにその

意趣返しを孔明は受けたようですね。



曹操の誤算は、官渡の戦いの戦後処理や、遺言を光武帝・

劉秀からパクリ…もとい引用するぐらい、先人の戦略を真似たようですが

後漢建国時には呉はなく(荊州が当時の最南端)、過去のマニュアルが

無かったため赤壁の戦いなどで手こずってしまい、天下統一を果たせなかった

ことでしょうか。



劉備ではなく、曹操が劉氏の血を引いていればおそらくスムーズに天下統一

を果たせたかと思います。



物語的には面白くても、曹操と逆に武や知のみに偏ったいい人の人材のみ集め、

汚れ役や異能の人材を集めなかった劉備は過去漢王朝に敵対し、破れた

勢力と同じ轍を踏んでおり、破れるべくして破れたのです。



始皇帝に仕えた守銭奴で知られる将軍、王翦。言語障害のあった韓非子。

自分の出世のために知人の韓非子を図って殺した李斯。



劉邦に仕えた上記の陳平。元盗賊の彭越。自分の出世欲のためだけに犯罪者と

なった英布。元ニートの韓信。劉邦が嫌った儒学者たち。



劉秀に仕えた戦闘狂の呉漢。劉秀の親兄弟、親類の仇だった岑彭。



などなど、統一を果たした君主はいい人の人材を表に使う一方、平和な時代には

悪人といえる人材を、ここぞという時に使いこなしていたのですから。

魏延なんてまだ忠実な方です。







>劉備の方が徳があって多くの有能な人が集まったような。

少なくともこれは間違いだろ



劉備に関、張、趙、馬、黄がいるなら

曹操にゃ夏侯惇、夏侯淵、張遼、許チョ、曹仁曹洪、于禁に楽進、李典がいたし



劉備に伏龍鳳雛、法正がいたなら

曹操にゃカク、カクカ、ジュンイク、ジュンユウ、テイイク、司馬懿がいた



↑あくまで同レベルと判断できる将だけでこれだけ数的に差がある



あとは本人同士のスペック差

これは明らかに曹操>>>>劉備



こんだけ条件が違えば、そりゃしゃーない。



関羽や張飛が楽進や李典より強い、と思うのは演義の読みすぎだぜい。







演義(小説)のイメージに捕らわれすぎですね。曹操はワンマンでも恐怖政治

でもありません。むしろ有徳の人物と言っても良いでしょう。



部下の進言には良く耳を貸し良い策は積極的に取り入れていく。己の能力

に自信がある人は他人の意見に耳を貸さない(それがその人の限界になる)

ことがしばしばありますが、曹操は良く部下に発言を求めこれはと言うものを

採用するだけの器があるのです。



そしてその策が良くあたる。判断力も優秀な訳です。適切な進言を受け入れ

ることができる訳ですからミスも少なく、また自分の専門外のことは専門の人に

任せるだけの度量もあるから曹操個人でできる限界以上のことを成し遂げる

ことができる。



配下の進言を聞き入れる、と言う面では劉備よりも上と言っても良いぐらいかも

しれません。



また戦時故の措置ですが、戦争で家族が失われた際は遺族に手厚い保障を

するように布告を出すなど常に民のことを考えています。その結果中原は安定し、

南方に逃げていた多数の人材も北方へ戻って、さらに魏国を強大化させること

に成功しています。



それと人材に関しては曹操側の方が圧倒的に優秀な人材は揃っています。これ

も小説のイメージとは違いますが、単純に劉備側に一人優秀な人材がいたら魏

には同等クラスの人材が5~6人いた、と言っても言い過ぎではないぐらいです。



曹操は激化する中原の勢力争いの中、地道に兵力を増強し屯田政策で食料

の増産を推し進め、備蓄した食糧の量を基に計画的に戦を行なっています。彼が

無理をしたのは官渡の戦いの時ぐらいじゃないでしょうか。いずれも地味で目立た

ない行為かもしれませんが、それが魏国を強大にした最大要因だと思います。

曹操は辛抱強い人物でもあるのです。



良く織田信長が曹操に似ている、と言いますが部下の進言を良く聞き、人たらしな

ところは秀吉に、辛抱強く地道な作業を厭わず行なう姿勢は家康に似てるとも言え

ます。



戦国時代の三傑の良い所を併せ持つ、と言えば曹操の凄さが分かるでしょうか。







正史の記述を見てみますと



曹操の祖父は大長秋の位(皇后の侍従長)まで登った宦官の曹騰です。

そして曹操の父は金で大尉(軍事の最高官)を金で買った曹嵩です。



資金はありますし、金で買ったとはいえ大尉の息子ですから(袁紹などには及びませんが)まあまあ家柄が悪いとは思いません。

劉備に比べれば天と地ほどの差があります。(劉備の父は無官{ただの人}です)





曹操自身の能力も優れたものがありました。

学業には見向きもせず、遊んでいたみたいですが、二〇歳で考廉に推挙されています

無能な人間が20で考廉に推挙されるとは考えづらいかと



その後は洛陽北部尉

(このとき夜間外出の禁止を破った、皇帝のお気に入りの宦官の叔父を捕まえて叩き殺しています。 権威があろうと罰則の適用を躊躇わなかった)

頓丘の県令、議朗となり



三〇の時に起こった黄巾の乱では騎都尉(近衛騎兵の隊長)になり、黄巾の主力がいた頴川の討伐に成功しています。



その功績で済南の知事になるなど順調に出世していると思います。

この出世は曹操自身の能力によるものでしょう。





この後曹操は腐った政治に嫌気がさし、仮病で故郷にかえりますが、

反董卓連合の時に私財を使い挙兵します。

しかし兵力で劣る曹操は散々に打ち負かされ、もう一度募兵しますが兵士が反乱、そこでもう一度募兵して千人を集め河内に駐屯します。



反乱がおきるとは不幸な話、そこで殺されなかったのは不幸中の幸いというところでしょうか







そして黒山の反乱鎮圧、その後エン州牧となり青州黄巾党討伐、降伏兵の精鋭を青州兵として自軍に組み入れます。

除州討伐中に呂布と結託して裏切った張バクによって一時はエン州を失うものののその後奪還、予州の一部も占領し勢力を拡大します。



呂布にしてやられるわけですが、苦難がありましたが奪還しています。

決して運がいいとは思えません

奪還できたのは運が良かったと言えばそうかもしれませんが実力がないと不可能です。







その後曹操は程イクらの進言により天子を許都に迎えます。そのあといろいろな事がありますが(字数が足りなくなりそうなので省略)

袁紹との決戦になります。

袁紹との戦いでは曹操は不利な状態でした。

南に劉表、孫策、東には劉備と敵がおり、西の馬騰らは中立です。

ただ、ちょうど劉表の荊州では曹操に呼応した反乱が、孫策は暗殺され、曹操が劉備を攻め立てている留守中に袁紹の配下は進軍を促しましたが袁紹は反対し、背後、側面から突かれる心配はなくなりました。



これは運がいいとしか言いようがありませんね。







その後袁紹との官渡の戦いに勝利し、袁紹の跡継ぎ問題を上手く利用して華北を制圧、鳥丸にも兵を進め、その後荊州へ軍をすすめます。

しかし劉表の跡継ぎの劉ソウは戦わずして降伏。無傷で荊州を手に入れます。

勢いに乗り曹操は孫権討伐も実行、孫権は降伏せずに迎え撃ち、赤壁で曹操は敗走し、劉備と孫権が荊州に侵攻するのを止め切れなくなりました。





赤壁の戦いで黄蓋の降伏を信じてしまったのが大失敗でした。

そのミスにより敗退する結果となりましたが、失ったのは無傷で手に入れた荊州と、荊州の降伏兵くらいです。

もうこの時点で曹操の勢力はどの勢力にも劣らない状態です。

この後、三国鼎立時代に入っていきますが、魏の勢力は強大で魏を引き継いだ晋が天下統一をすることになります。





曹操の優れた戦争指導、才能本位の人材登用(党コ事件で排斥されていた知識人など)、屯田制など内政面でも優れた能力を発揮しています。

さらに曹操は宦官の孫であり、主に頴川などの知識人との関係も良好で、最後には皇帝の外戚にもなっています。

後漢に権力をにぎっていた三つの勢力のどの地位も手に入れたということで面白いと思います。

あとは禅譲を受けるだけというところまでいきましたが、寿命で死亡し、息子の曹ヒがやり遂げることとなりました。



多少運が良かった面もありますが、曹操の能力が高かったといえるでしょう。



劉備は逃げ回ってばかりであまり住民からの人望はなかったかと。長くいた荊州での反曹操知識人や住民からの人望はあったと思いますが

また、配下には地縁血縁が少なく(張飛、カンヨウ 劉禅)

兵士は逃げ回っていたために他国から連れてきたものも少なくありません。

また、家柄も悪く(皇帝の遠い子孫など腐るほどいる)資金もなく、

苦労は当たり前だと思います

結局滅びるわけですが…



追記



恐怖政治は賛同しがたい。

それは董卓だと思います。

除州大虐殺はありましたが一族皆殺しとか食人とかが行われていた当時からしたら除州の件以外は普通なんじゃないでしょうか。



劉備の方に有能な人材が集まった?

どう見ても魏が一番人材が集まっていますが

五虎将軍と戦下手の諸葛亮と後誰ですか?

五虎将軍の死後は深刻な人材不足に陥っていますが

字数やばいんで説明しきれない







漢の国で出世出来たのは、傑出した軍人としての器でしょう。

それに、曹操の家庭はかなり裕福な家庭でしたから、地位を金で買う事も出来たでしょう。三公の一つの大尉を父が金で買ってますしね。もともと軍内部での地位は高かったです。黄巾の乱の平定に功があったので西園八校尉になったのも大きいでしょう。

そして天運です。

家臣がついたのは曹操が洛陽を出てからですから、洛陽での出世はこの5点だと思います。



軍人としての器。

地位。

金。

武功。

天運。



劉備とはそもそも出発点が違いすぎます。ただの極貧の民間人と、大金持ちの国防長官の息子ぐらいの違いがありますから。

どちらの方が運が強いかと言えば、極貧の民間人の劉備の方が運が強いでしょう。

曹操は出世を約束されたような家系ですから。曹操の場合は、民間人にいきなり良質の家臣がついたわけじゃないです。

洛陽での地位が高かったから家臣がついたのです。

後、三国志は全てがフィクションじゃないですよ。フィクションの三国志もあるというだけです。

曹操という人物は実在してましたし、魏という国も存在してました。



争乱の中で何が意味があるかと言えば、一つには家柄です。

名門という名の響きに人は集まってきますから、袁紹の下に人は集まりました。

曹操自身は家柄が宦官の家系ですが、洛陽時代に西園八校尉になっているので、極貧の負け続けの劉備よりは圧倒的に人が集まります。もちろんお金もありますから。

西園八校尉は漢の皇帝の直属の正規軍を率いる将軍の事です。

漢で将軍だったからこそ、宦官の家系でも人が集まってきたのでしょう。

劉備の方は、領土を持たない流浪の人でしたから、人は集まりません。

大会社の社長と、零細企業の元社長(現在は乞食)のどちらに人が集まるか考えたら分かりやすいかと思います。







家臣でしょうな



優秀な家臣に恵まれただけでしょう

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