2012年3月20日火曜日

三国志。趙雲が助けた、劉備玄徳の子ども「阿斗」の活躍は?

三国志。趙雲が助けた、劉備玄徳の子ども「阿斗」の活躍は?

諸葛孔明と共に、曹操孟徳と戦ったでしょうか?







劉禅として劉備の跡を継ぎ蜀の二代目皇帝になりました。

暗君だったようで蜀がほろぼた最大要因とも言われています。趙雲も成長した彼を見て後悔したかもしれませんね。

そうは言っても「阿斗の祭り」ですが・・・・








阿斗はその後父の劉備の徳を受け継ぐことはなかったのですが暗君として有名で名の阿斗はアホの語源にもなりましたそして成人した時にはもう曹操孟徳はもう爺さんでしたから戦うことはなかったどころか戦争にでたことすらありませんでしたから戦争はへたくそなのでしょうけど自分は20年以上帝位についていたことからそこまで悪くなかったと思います阿斗より呉の最後の皇帝の孫酷のほうがひどいと思います







劉禅(阿斗)は、父親劉備の後を継いで、蜀2代皇帝となりました。

諸葛亮の北伐はもちろんのこと、戦場に出たことはありません。

幼少期には、劉備の放浪癖と、度重なる遺棄により苦労しますが、

蜀を得てから、温室栽培の典型的な2代目になってしまいました。



戦場を経験していないので、緊張感に欠けていました。

私は、諸葛亮の少々無茶な北伐も、

劉禅の緊張感を持続させる為というのも理由の一つではないかと思います。

諸葛亮が亡くなった後は、重石が取れたかのように奸臣の壟断を許しますが、

そこそこ優秀な三相らが政治を引き締めたため、

皇位について40年、本人の功績ではないものの、

蜀の国を生き永らせました。



中国では今でも無能な跡取りを「阿斗」と言います。

ただ実際の劉禅はそこまで非難を受けるほど

無能な人物ではなかったのではないかとは思います。



後主伝(劉禅伝)の本文においても、

劉禅自身が取った能動的行動は皆無に等しく、

具体的な人となりは殆ど分からないため、

彼がどこまで政治に関わっていたのかは不明ですが、

蜀の旧臣陳寿の『三国志』では、

「白い糸は染められるままに何色にも変ずる」と書かれています。

(周りの人間が有能ならよく、悪かったら駄目になるような人間である」という主旨)。



呉の孫皓のように残虐な振る舞いは行わなかった点は評価してもよいと思いますし、

隣国の呉では政情不安定のため謀反や反乱が頻発していたのと違い、

暗君、暴君で起こりがちな謀反や反乱は起きなかったのは、

劉禅が有能であったとはいえませんが、

人畜無害で平凡な君主ではあったのでしょう。

庶民にとっては平凡がある意味平和ですからね。



蜀が滅んだ後のこととして、

蜀書・後主伝の『漢晋春秋』に逸話が残ります。



宴席で蜀の音楽が演奏されて

蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていました。

それを見て司馬昭は

「人はここまで無情になれるものなのか。

諸葛亮が補佐し切れなかったのであるから、

姜維にはなおさら無理であっただろう」と賈充に語ったとされます。



また、司馬昭が劉禅に

「蜀を思い出されることでござろうな」と尋ねたところ

「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」と答えました。

蜀の旧臣・郤正が

「あのような質問をされたら、『先祖の墳墓も隴・蜀にありますので

西のくにを思って悲しまぬ日とてありませぬ』とお答えください」と諫めました。

司馬昭は再度「蜀を思い出されることでござろうな」と質問します。

劉禅は郤正に言われたとおりに答えた。

「これはまた郤正の言そのままでございますな」と司馬昭に言われ、

劉禅は驚いて「はい、そのとおりです」と答えて大笑いになったといわれます。



幸せな人生とはいえませんが、

もともと皇帝の地位を重く感じていたようなので、

皇帝廃位後、8年間生きて亡くなるまでは

縁側でお茶をすすって、

ぼんやりできる本人にとってはいい晩節だったのではないでしょうか。







蜀滅亡後、魏の国の宴会の席で



魏将「蜀が懐かしくはないですか?」

阿斗「ここは楽しいので別にそうは思いません」



このように活躍しています。







成人して劉禅となりました。派手なシーンはありません。



孔明の没後、魏に降伏して隠遁生活を送っています。



「阿斗」が阿呆の語源という話まであるほど、だめ君主、



暗愚な盲君として描かれますが、事実上、もうもたなかった



蜀の国土を戦火にさらさず永らえさせた名君とも考えられますね。



無理があるか。。。

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