2012年3月9日金曜日

三国志の郭嘉の実績って具体的にはどのようなことをしたのですか?

三国志の郭嘉の実績って具体的にはどのようなことをしたのですか?







曹操は、政権の参謀部門の充実を図る為、軍師・軍師祭酒と言う官職を設置します(後漢時代始め、長安の赤眉討伐を命令されたトウ禹[トウ=登+邑偏]が、軍師一名・軍師祭酒三名を随行させた故事を倣った物と思われる)。軍師・軍師祭酒は、参謀長・一般参謀程度の関係、と思えば良いです。

西暦一九七年、郭嘉は、荀イクの推薦で曹操と面会し、意気投合して彼の麾下に加わります。其の時、曹操が郭嘉に授けた官職が、参謀職の軍師祭酒です。以後、郭嘉は、参謀・相談役として、曹操に様々な献策します。郭嘉の実績は、曹操の意思決定に影響を与えた献策の数々、と言えるでしょう。



曹操は、呂布が徐州を支配していた頃、郭嘉に「私は、袁紹を討伐したいと思うが、力では相手にされない。如何したら良いか」と問います。郭嘉は、道義・正義・政治・度量・策謀・人徳・仁義・聡明・法制・軍事の全部で曹操が勝っている、と答えます。更に、袁紹と公孫サン[サン=王+賛]が戦っている間に呂布を討伐すべき、と進言します。

西暦一九八年、郭嘉の此の言葉に力を得た曹操は、徐州の呂布を攻撃しますが、撤退した呂布に堅守され、士卒は疲労困憊してしまいます。一旦兵を還そうとする曹操に、郭嘉・荀攸が呂布を急攻せよと勧めます。其の結果、同年十二月、曹操は呂布を斬りました。



西暦一九九年、劉備が徐州小沛で独立します。曹操は、直ぐ劉備を討伐しようと考えますが、幕僚達は反対します。迷う曹操に相談された郭嘉は、「袁紹は愚図で躊躇してばかりいるので、直ぐには攻撃して来ない筈です。劉備は、兵を起こしたばかりで、人心を未だ掌握しておりません。急いで彼を撃てば、必ず勝てます」と答えます。

西暦二〇〇年、郭嘉の進言に従った曹操は、劉備を攻撃して大勝します。此の間、郭嘉が予想した通り、袁紹は動きませんでした。



西暦二〇七年、曹操は、袁紹の息子袁尚と烏丸の攻撃を検討します。幕僚達は、劉表が劉備に命令して許都を攻撃させる事を懸念します。が、郭嘉は、劉表では到底劉備を使いこなせない、と予想します。そして、曹操へ熱心に遠征を勧めます。遠征に踏切った曹操は、見事勝利を収めました。



陳羣は、郭嘉の素行の悪さを問題視し、度々弾刻します。曹操に呼ばれると駆付け、曹操への献策が有れば出向き、曹操の遠征に従軍する…此れ等以外の時の郭嘉は、自由に気儘に過ごしていた、と思われます。郭嘉に実務的な実績は無かったでしょう。








wikipediaの文章を丸写しなら、リンク先を貼るだけで十分では。



孫策の死を予見した話は郭嘉が自分の考えを披露しただけです。彼の実績と言えるでしょうか。意見を述べながら結局曹操を動かせなかった話も彼の実績とは言えない気がします。







la_bonita_aさんの付け足しで劉備を殺そうと進言した人は荀彧です







劉備が曹操の元に逃れてくると、曹操は劉備を豫州牧に任命した。ある人が曹操に対し、劉備を殺害するよう進言したが、郭嘉は高名な劉備を殺害することにより、曹操の評判が落ち、賢者が曹操に仕官することをためらうことを重視して、それに反対し、曹操に喜ばれた(『魏書』、ただし『傳子』によると郭嘉は劉備の殺害を進言している)。



198年、曹操が呂布を討伐した際、下邳に籠城する呂布を攻めあぐね、曹操が退却を決意しかけた時、荀攸とともに(「荀攸伝」)攻囲を継続することを主張し、沂水と泗水の水を引いて水計を行う進言をした。





水計が実行されると、水攻めにあった呂布の軍は戦意を喪失して瓦解した。呂布はこの戦いで捕らえられ、縛り首となった。曹操は徐州を得た。



曹操は袁紹と一触即発の状況にあったが、このとき、袁術が北上し青州の袁譚と徐州で合流しようとしていた。曹操は袁術に備えるため、曹操は徐州に劉備を派遣しようとした。郭嘉は程昱と共に車で曹操の元を訪れその措置に反対した。結局、劉備は叛いたため、曹操は後悔したという(『傳子』、「武帝紀」)。



曹操は劉備を討伐しようと考えたところ、人々は袁紹に背後を襲われることを心配してそれに反対したが、郭嘉は袁紹が決断を欠く人物であるから迅速に行動できないと判断して、劉備を討つことを勧めた。これは曹操の考えとも一致するところであったので、曹操は劉備を攻撃し、敗走させた。袁紹はやはり攻撃してこなかった。



200年、ようやく南下を開始した袁紹と曹操は一大決戦に及んだ(官渡の戦い)。郭嘉もこの戦いに従軍した。曹操が袁紹と官渡で対峙している最中、孫策が許都を急襲する構えを見せ、人々は戦々恐々となった。だが郭嘉は孫策が江東制圧を急ぐあまりに苛烈な粛清を行って多くの人間から恨みを買っており、それを警戒してもいないため、近いうちに暗殺されるだろうと予測した。果たして孫策は狩猟中にかつて殺害した許貢の食客に襲撃されて重傷を負い、これがもとで命を落とした。



官渡の戦いで敗れた袁紹は病没した後、袁譚と袁尚が袁家の後継をめぐり争った。曹操は内紛につけこんで袁譚・袁尚と黎陽で戦い、これを破った。一気に袁家を滅ぼそうという諸将に対し、郭嘉は次のように語った。「袁紹は、袁譚と袁尚のどちらが後継者か指名しないまま死んだので、このまま攻撃して両者を団結させずとも、放っておけば後継者争いを始めます。南の劉表を討伐すると見せかけて変化が起こるのを待つのがよいでしょう」。この言を採用して曹操が撤兵し、劉表を攻撃するため西平に出兵すると、たちまち袁家は骨肉の争いを始めた。



後継者争いに敗れ平原に落ち延びた袁譚が辛毗を派遣して曹操を頼った。郭嘉は辛毗と対面し、その使者としての役割を果たすことに協力した(「辛毗伝」)。曹操は袁譚の降伏を受け入れ、袁尚を破り鄴を陥落させた後、約束違反を咎めて袁譚を攻撃し、南皮で斬り、冀州を平定した。郭嘉は洧陽亭侯に封じられた。



郭嘉は北方の人材を曹操の元に集めるのに功績があったという(『傳子』)。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%98%89

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