三国志でもし、呉の孫権が献帝を擁立することができたら
曹操のように権力を横暴したとおもいますか?
個人的にはそうそほどにではないにしろ多少は利用したと思ってます。
後に皇帝になったぐらいですから
権力を横暴>権力を笠に着てor権勢を振るう
そほど>さほど
誤字などが目立ちますので一応訂正しておきます
それでは本題に入りますが人間って権力を手に入れると余程強い誇りと自制心が強い人間でない限り我慢できるものではありません 私が知る限り中国史では劉秀や趙匡胤でしょうか 彼らとて完全に自分を律することができたかどうか…
つまり貴方様が思うよりもっと人間って自制心がない弱く醜い生き物だと思いますよ 孫権も史実の行いを見る限りそこまで高潔な人間に見えません 孫権の文句を言っている訳じゃありませんよ それは仕方のないことだと思いますから
孫権は権勢を振るうようになるでしょうね
frogman03544様>訂正いただきありがとうございます そほどをそのまま然程としてしまいました 短絡的でした(汗)
いえいえ『聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥』じゃありませんが訂正していただく方が嬉しいです これからも宜しくお願いいたします
曹操ほども行きませんが まぁ多少は利用するでしょう。
もし孫権が曹操並みに扱ったら劉備はおそらく孫権敵対勢力の 山越 と組んで孫権と手を切るとおもいます
孫権からしてみれば 曹操 山越だけでも大変なのにそこに劉備軍が加わるともっと大変です。ですから曹操みたいに権力を横暴しないでしょう。
したがって献帝を使って皇帝にはならなかったと思います
ご質問の前提が、
「漢」時代か
「魏」時代になってからかによりますが、
まだ、「漢」の時代(220年以前)に、
曹操の立ち位置に孫権がいたとしたらが前提なら、
孫権=呉というバックボーンが変わらないでしょうから、
献帝が、まだ当時辺境扱いされていたであろう、
呉の本拠地「南部」に都を移しておとなしく従っていたでしょうか。
董卓に脅されたとはいえ、
「洛陽」から「長安」への遷都でさえ嫌がった献帝です。
その後、曹操の都「許都」に移りますが、
ここは同じ中原の地。
献帝も、重臣たちも、気候も穏やかで、人も多い、
住みなれた地域だから、
曹操という庇護の下ながらしぶしぶしたがっていたように思います。
豪族の集まりである「呉」を孫権が留守にして、
中原に居を構えるわけにはゆかず、
かといって、
「呉」では中原の献帝を奉じ奉るにはあまりにも遠い距離です。
この頃の献帝の権威は勇名無実化しており、
形ばかりの帝の庇護では役に立ちそうにありません。
そのあやふやな隙を突かれて、
各地で(呉内部も含めて)戦乱が勃発し、、
へたしたら孫権自体が、
まだ1枚岩でない呉の基盤を失いかねず、
その後皇帝にという展開にスムーズになっていたかどうか・・・。
たとえば、
曹丕に禅譲したあと献帝が「山陽公」と呼ばれるようになった頃に、
まだ色濃く残る漢という「名前の権威」と、
道理的「正当性」を背後に勢力を拡大しようとして、
曹魏の手元を離れた後の「山陽公劉協」を奉戴しようとしたなら、
曹操以上に献帝の「名前」を利用できるかもしれません。
「劉協」も、いまさら中原の地を離れたくないなどの我儘は言わないでしょう。
「劉備」は、漢王朝復興が旗印なので、
(三分の計を夢見る諸葛亮を粛清してでも)
呉の軍門に下ることは十分ありえると思います。
呉の建業に所謂亡命政権を置き、北の魏に対抗し、
中国を二分する南北朝時代(200年早いですが)に突入したかもしれませんね。
ただ、孫権自身が「皇帝」を名乗れたかどうか・・。
劉備一党と、漢の遺臣などが集まるでしょうが、
それでも、北2:南1の勢力バランスは大きく崩れないでしょうから、
劉協から禅譲を受ける間もなく、その二分化も長く続かず、
司馬一族が「晋」を建てて中国を再統一するというストーリーは、
変わりそうにもありませんが・・。
(つまり、劉協を奉戴するなどの余計なことを考えずに、
呉という国を地道に自ら建てた方が「皇帝」を名乗る近道だ。
というのが私の考えです。)
《azarashikun1230さん》
こちらこそ、差し出がましいことをしまして、
ご丁寧なご挨拶までいただき、申し訳ありません。
訂正したいのですが実際は曹操は漢の丞相であって帝の配下としてやってました。
権力を専横していたというのは演義が悪役にするための創作です。
孫権が擁立したら演義の作者は彼を悪役にしたでしょう。
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