三国志で官渡の戦いってありますよね。
あの戦いでもし袁紹が田豊達の意見を採用してたらどうなっていたと思いますか?
また、袁紹が曹操を倒していたらどうなっていたと思いますか?
まず田豊の進言を考察してみます。
進言1「曹操が劉備を攻撃しに向かっている隙に、その背後を襲えば、一回の遠征でも勝てます。」(後漢書袁紹伝)
一般的には、この進言に対して袁紹が息子の病気を理由に採用しなかったとしています。(魏書袁紹伝・後漢書袁紹伝より)しかし于禁伝では曹操が劉備の征討に向かった隙に、袁紹軍が延津に攻撃をかけています。白馬にも袁紹軍の方が二ヶ月早く着いており、実際にはしっかり隙をついて進軍しているように思われます。問題は足止めにより黄河を渡れなかった事にありますが、何れにしても進言の内容に近い行動をしています。
進言2「曹操はすでに劉備を破り、許はもう手薄ではありません。持久戦に持ち込み、相手を疲労させれば、三年以内に勝つ事ができます。」(後漢書袁紹伝)
複数の記述から見ると、双方が陽武・官渡に布陣してからは持久戦に近い戦い方をしています。それでも不十分ならば、遠征自体を中止する必要がありますが、すでに大軍を動員していますから反発や無駄は大きいでしょう。さらに、袁紹側は官渡の戦い前後で、離反者や内部対立が目立っています。下手に持久戦に持ち込むと、切り崩しを行われて戦わずに弱体化する可能性もあります。曹操側も屯田や汝南の統治強化が進み、付け入る隙がさらに減少するかもしれません。持久戦も完全な計画とは言えません。(少なくとも官渡で大敗する事は防げるでしょうが。)
次に袁紹が勝った場合を考えてみます。
袁紹側の問題の一つは深刻な仲間割れです。原因の一つが、冀州人の権限の強さです。
官渡の戦いの前の官位を比べます。沮授は奮威将軍・監軍で諸将を統率。田豊は別駕従事。審配は治中従事で鄴を管理。張郃は寧国中郎将。
一方で郭図・淳于瓊・許攸・荀諶は不明、先の二人は沮授の権限を分けて都督になる。逢紀は護軍。
また官渡の戦い以前で袁紹に殺害された部下は、麹義・耿苞・朱漢・張導・劉勲などです。この中で一人が不明、残りが冀州以外の出身です。
これらの境遇の差から、袁紹陣営が冀州豪族(名士)中心の傾向にある事が見られます。この状況は才能の差以上に、冀州を本拠地にしたために地元の有力者に依存する事になった結果でしょう。
曹操を倒した後、当然献帝は冀州に移ることが求められるでしょうが、冀州人とさらに差が開く事を嫌った者達が抵抗して、早速仲間割れが起きるかもしれません。
もし十分な求心力を発揮して分裂を防ぎ、尚且つ冀州系の言いなりにならなかった場合には、そのまま順調に天下を統一したかもしれません。統一しなくても、過去の漢王室に対する行動から考えると、簒奪を目指す可能性は高いでしょう。或いは混乱に乗じて、劉備や劉表が勢力を広げる(乗っ取る)可能性もあるでしょう。
なまじっか名門の出であることが災いになる場合ってありますよね。
現代の日本の政治がそうではないですか?高級官僚出身者の国会議員というのはそれだけで庶民からは疑惑の目で見られてしまい、応援する気にはなりませんよね。無所属のほうが選挙で有利、という外国からすれば不思議な事態になっているわけです。
時代には変革期というのがありまして、古い考え方や制度・家柄をご破算にしてしまわなければならない時期というのがあるのです。
三国志というのはまさに古代中国の変革期を描いたものです。
で、袁紹というのは四世三公の家柄でばっきばっきの名門の家柄ですよね。このことが中央政界に進出する上で逆にマイナスに作用したのではないでしょうか?あるいは袁紹もじぶんでそのことを分かっていたのではないでしょうか?
要するに徹底的なあら捜しをやられるわけですよ。
わたしは官渡の戦いに勝ったとしても袁紹が王朝を築くのはむりだろうと思います。
官渡の戦いでは、序盤で顔良と文醜を失ったものの戦いが長引くと多くの将が袁紹に寝返り、曹操をあと一歩のところまで追い詰めています。なので、袁紹がもし田豊達の意見を取り入れていたなら、曹操に打つ手はなくなり袁紹が勝者となっていたでしょう。それ以前に袁紹は、董卓殺害によって長安が大混乱となった時に参謀の郭図から帝を迎えて、勢力圏内のギョウに遷都を強行するべきだと進言されているので、曹操より先に献帝を保護するチャンスがあり、曹操に取って代わる事も出来ました。また、曹操が沛の劉備を攻撃中に背後を襲う事も。ただ、稀代の名参謀・荀イクや郭嘉などを手放す袁紹が曹操のように領土を拡げられるかは疑問です。
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