2012年3月11日日曜日

三国志ですが、曹操の息子の「曹丕は冷酷な君主」だったのでしょうか? Wikでは、...

三国志ですが、曹操の息子の「曹丕は冷酷な君主」だったのでしょうか?

Wikでは、演義用に誇張された人格であるように書いてありましたが…



できの良い弟・曹植に対しても、流刑を行っているようですが…(後に、暗殺との話もありました)

「豆を煮るのに豆ガラを燃やす」とはどのような意味があるのでしょうか?

同じく弟の曹熊に対しては、自殺に追い込んでいる記述がありましたが、真実でしょうか。



そのような人物だとすれば、なぜ、曹操が曹丕を跡目に選んだのかも、よくわかりません。



真相を知りたいので、何かご存知の方、教えて下さい。よろしくお願い致します。







誇張された部分もありますが、全てが誇張ではありません



しかし、曹植を遠ざけたのは派閥争いに乗じて権勢を握ろうとする曹植派を野放しにすれば統制が取れないため、必要以上に強く本人を断罪したきらいがあります

曹熊は病弱で気弱だったため、曹植が曹丕への対抗心から曹操の葬儀に参加せず、後に曹丕に断罪されたのを見て、自分も罪に問われることを恐れて自殺したもので曹丕の意図したところではありません



曹操が曹丕を跡目に選んだのは純粋にその才能が他の兄弟より優れていた(政治・戦略はもとより詩才についても曹植に大きく劣るものではないと当世の評判でした)ことと、近臣による「袁家が何故滅んだか思い出してください」との進言を容れたものといわれています

(袁紹は末子袁尚をかわいがり、後継者を決めずに死んだため、子供同士が反目し、つけ込んだ曹操に攻め滅ぼされた。進言は暗に長子相続をして筋目を立て、袁家の二の轍を踏むなとの意)



しかし、曹丕には冷酷というより歪んだ部分があったと思われます

例えば関羽に降伏した于禁が呉から帰還した時、曹丕は「お前の責任ではない」と慰め安遠将軍に任命しました

そしてまず曹操の墓に挨拶をして、その後呉に使いするように命令しました



ところが曹操の墓の近くの建物にはホウ(广の中に龍)徳が関羽を相手に奮戦して忠節を曲げずに死んだ姿と于禁が命乞いをする姿が書かれていました

曹丕は外見上于禁を許したように見せかけましたが、惨めに降伏した于禁を許さなかったのです



このため于禁は面目を無くして体調を崩し、そのまま病死しました

後世の批評家の多くが「君子の行いではない」と曹丕の行為を非難しています

(ちなみに于禁の下りは全て魏書十七巻(張楽于張徐伝)本伝にある史実です)



ところでアバターが大変なことになってますが何かありました?

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