2012年3月13日火曜日

三国志への道。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ところで...

三国志への道。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



ところで、裴松之評では官渡決戦の時、
曹操軍が袁紹軍の10分の1以下の兵力だったのは有り得ないと言っています

それでも、曹操は袁紹より少ない兵力で勝ったんだと主張する人いますか?(個人的に)







裴松之の言うところは最もだと思いますが、それでも「曹操は袁紹より少ない兵力で勝った」

と思います。



・曹操側の分析で「兵は多いが統制がとれない」から動員数を減らした。精鋭で勝負した。



・許に皇帝を迎えたが、潁川郡の近くで、荀彧伝に「潁川は四方から攻められやすく・・・」と

書かれていることから、防衛の為兵の動員が出来なかった。



・当時、孫策が許に侵攻しようとしたように袁紹以外の敵に備えたため(上記と同じかな)



これぐらいが、袁紹の軍勢より少なかったと考えられるところかな?



逆に、裴松之が言うように極端な兵力差ではなかったと思われる部分は



・少数であれば兵糧の心配も少ないと思われ、弱気になり、荀彧に手紙を書いたりしないだろう

と。それなりに動員したから、兵糧の心配をしたんたんだろうと。



・195年あたりに屯田制を行い、裴松之の注には「凶作が続きどこも食糧難のなか穀物百万石」

の収穫とあり、毎年そうだったとは限らないが、兵糧不足は他よりマシだったはず。



・上記と同じところにに「袁紹軍の将兵は、桑の実を食物とし・・・」とあることから、時期は違えど、

苦しいのは大軍の袁紹軍になるのだから、屯田制を行った曹操軍が少数で兵糧の心配はあり得

ないだろうかと。



という点で、袁紹より少なかったとは思われるけれど、極端な兵力差ではあり得ないと思います。

袁紹より兵が多かったら、また違う書き方だったとも思います。長々と失礼。








官渡合戦前夜では袁紹は曹操の倍程度の兵力を有していたとされています。

河北を治める袁紹に対し、司隷一帯を手中にする曹操が一桁も違う兵力だったということは想定もつきません。



恐らく局地戦の部分のみがクローズアップされた形が10倍という兵力差に現れたのではと推測します。



>それでも、曹操は袁紹より少ない兵力で勝ったんだと主張する人いますか?(個人的に)

兵力のみで考えると明らかに曹操の方が劣勢だったと考えます。

しかし、兵力差はそこまでかけ離れてはいないと思いますよ。

0 件のコメント:

コメントを投稿