三国志演義について質問です。
曹操に殺された名医、「華陀」ですが、彼は曹操に仕えてたんですか?そして劉備たちとは接点があったんでしょうか?
分からないのでお願いします。
詳しくは分かりませんが
「曹操」というよりは「漢帝国」に使えていたような気がします。
「医は仁道」というように医術に卓抜していた分
教養として儒学にも精通し「演戯」の様にわけ隔てなく治療し
「史実」では曹操の疑念によって獄死していますが
他の漢帝国への忠誠者や儒学者同様に曹操とそりが合わなかったから思います。
(蒼天航路参照)
劉備たちとの接点は否定はできませんが
文献や伝承に伝えられてない以上はなんともいえません。
ただ結果として「曹操によって獄死」したということは
劉備とは違った「仁道」を目指していたのでしょう。
三国志時代は現代のように医師の社会的な地位が高かった時代でなく
医師の華陀のことも武将のように記録に詳しく残ってないのが実情
それでも低い身分の医師である華陀が記憶されて今でも伝承されているのは
医師としての実績の凄さと、もう一つは魏の曹操の主治医であったからこそ
一応、歴史に名が残っている所以ではないでしょうか。
だいたい、どの書見も華陀が曹操に逆らって投獄され殺害となってます。
私が信じている説は、華陀は医師の地位の向上を曹操に進言したが認められず
曹操の主治医を辞退して故郷で開業医をやって、それが曹操を怒らせたという説
関羽や周泰を治療したというのは創作上のお話。
当然劉備との接点は無かったものと思われます。
曹操はかねてより偏頭痛に悩まされており、噂を聞いて無理に呼び寄せ、典医としたようです。
華陀は劉備が荊州の劉表のところに居候していた頃には既に曹操によって獄中にいました。
華佗伝では、生の魚介類に目がなかった徐州の陳登に寄生虫が沸いたとき、”虫下し”を処方しています。
華佗はそのとき、3年後に陳登の体に寄生虫が沸くことを予知したそうですが、如何せん、自分の命数(結果、曹操に殺されてしまうが)を予見できていなかったようで、3年後に陳登が寄生虫に侵された際は治療する医者もなく、結局死んでしまったということです。
関羽が戦闘で毒矢を肘にうけてしまい、滞在先である荊州まで出向き、肘についた毒を削って治療した。
その後 頭痛に苦しむ曹操に召し出され治療する事に。
ところが治療方法が頭蓋骨を割って病原菌を取り除く事から当時すでに殺されていた関羽の恨みを晴らすのかと思われて投獄されそのまま牢獄で亡くなってしまった。
詳しくはWikipediaで華佗で検索して調べてみてください。
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