三國志の呉が天下統一を成し得なかった要因は何だと思いますか?
そもそも呉という国が“天下統一”を目指していなかったというのが大きいでしょう。
あとの2国のうち魏は“曹操体制を母体とした魏王朝による中華の統一”を目的としていましたし、蜀も“曹操の作った魏王朝を打倒し、漢王朝の統治を復興させる”事を大義名分としていました。
これに対して呉の国是は“中原の勢力から江東・江南の独立を守る”事に置かれていました。孫権が赤壁で曹操と戦ったのも江東の独立を守るためでしたし、魏と蜀の間で向背を繰り返したのも、自国の国益に徹しての事です。元々この地域は農業生産力が豊かなのと水郷地帯だったのとで広域的なコミュニティが成立しにくい土地柄だったようです。
呉という国自体がそういう地方の豪族の連合体で、自分達の独立を守る事には熱心でも中華全体の覇権にはあまり関心が無かったようです。それ以後の南北朝時代や南宋においても、北伐して中原を取り戻そうとする人は少数派で、全体的には長江流域一帯に安住しようとする傾向があったと思います。
戦力的に魏を滅ぼすのは、殆どあり得ない。蜀と手を結んでもあり得ない
( ’Д`)/孫一族の酒癖が悪かったから。孫権の死後、ゴタゴタしてたし。
主が阿呆だと乱も多く、降る者あとをたたず、国力はみるみる低下・・・
人口、経済力、人材などにおいて魏の足元にも及ばなかったこと。
呉は有望な人材を手に入れたが良いが、南蛮の侵入を恐れていたため
敵領地に侵攻できなかったのも一つ。
あと孫堅と孫策があまりにも早く早死にしたのも原因でしょう。
これは、ぼくの予想ですが
あと、ぼくは孫堅がせめて、曹操と同じくらいに死に、孫策と孫権が蜀を滅ぼして、
孫権と孫策の二頭政治があれば、天下統一も夢ではない。孫策が死んでも、孫権が
40代前後だし、家中の者もそれまで権力があった孫権に反抗するものはいないでしょう。
あとは、孫権の子供たちが立派に成長するのを見届け、孫権70歳のときには
曹不はもうこの世にはいなく、魏は乗っ取れ、うまくいけばチンギス・ハーンの
モンゴルくらい成長できたかもしれない、とぼくは思う。
単純に「人口不足」で兵力が確保できなかったからです。
今でこそ、南京・上海・香港・マカオなどの大都市がありますが、後漢~三国時代の中心はまだまだ「中原」とよばれる黄河中流域です。呉の首都「建業」は孫権によって築かれた新都市、その後南北朝を経てどんどん発展しますが、あの時代はまだ田舎都市だったからです。
因みに、長江以南で興った国家で中国を統一できたのは、唯一「明」のみです。
元々 呉の一帯の豪族たちの集まりで中原回復の意識が薄い 専守防衛が第一だから
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