2012年3月9日金曜日

三国志の魏の曹操は 赤壁での戦いでなぜ呉と劉備の連合に負けたのでしょうか?



三国志の魏の曹操は

赤壁での戦いでなぜ呉と劉備の連合に負けたのでしょうか?











赤壁の戦いは一部専門家の間で実在が危ぶまれています。

①惨敗したわりに曹操軍の武将が誰も死んでいない。

②曹操軍が壊滅したはずなのに荊州南郡のた太守たちが曹操に従い続けた。

③曹操側の資料に記載が無い。

などです。

正史によれば、曹操軍は10人中8・7人が倒れる程、疫病が蔓延していたとあり、これが原因で兵を引いた所を劉備・孫権に荊州を奪われたと言う説です。

確かに、後に魏が惨敗した定軍山の戦いや蜀が呉に惨敗した夷稜の戦いでは負けた方の戦死た大将の名前がずらずら出てきます。

赤壁はなかった。これが結論です。










赤壁の戦いは一応正史にも載ってるので、ある事はあったようですが、

小競り合い程度で、実際に決戦となったのは烏林のようです。

しかも、上の方が仰ってるように、曹操軍は疫病で戦闘どころではなく、

退却中のところを追撃されただけ。



演義にあるような「赤壁の戦い」は、無かったと言って良いと思います。







魏軍は100万とありますが実際は40万位だそうです。

魏軍(曹操)は水上戦に慣れておらず、又実践も殆どありませんでした。

呉軍(周喩)は水上戦が得意で、日ごろから訓練を積んでいました。

又、兵士も魏は船には慣れておらず、船酔いし兵士の士気もかなり低くなってしまったそうです。

赤壁の戦いが実在しないとは始めて聞きました。。。









軍中に、疫病が蔓延したので、自ら船に火を放ち、退却した。



という説が、最近研究者のあいだでは、支持されてるようです。







華北の軍勢に華南の水が

合わなかったからでしょうね。



おかげで体力が低下して

病気が蔓延してしまいました。







実際のところは油断でしょう。

それと舟の戦いに慣れてない。

地の利は呉と蜀にありました。







三国志を読みなさい・・・・・・・・・・・・・・・・・・







連環の計にやられました。100万の大軍でしたが

船を鎖でつないでしまって、火計に遭って全部燃えちゃった。



演義三国志ではこうなってますね。

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