三国志について質問です。
漢中の戦いで曹操の、鶏肋の合言葉を読み取ったことで、処刑された文官の楊修と、蜀の張松が曹操に面会に来たとき、
曹操が張松の態度に怒って、面会をやめた時、曹操にとりなした、
文官の楊修は同一人物ですか?
●正史に記載のある事柄は以下の通り
楊修は字を徳祖といい、漢の大尉楊彪の子である
その才を買った曹操に丞相主簿に任じられた
軍事・国政問わずに良くこなし、ことごとく曹操の意に叶った
曹操の子らや大勢の人々が彼と交わりを結んだ
彼は人の心を即座に推し量る才能に恵まれていた
二一九年正月、劉備と陽平関で対峙していた夏侯淵が戦死したため、
曹操は自ら兵を率いて漢中に進み、陽平関に達した
しかし、戦況は進展せず、食糧の補給にも窮するようになった
そこで曹操は「鶏肋」という布令を出したが、属官たちは意味がわからない
楊修だけが陣払いの支度を始めたので、人々が理由を問うと、
「鶏の肋は捨てるに惜しいが、食べても腹の足しにはならない
それを漢中にたとえられたのだから、王は帰還するおつもりだ」と答えた
曹操は曹丕・曹植のどちらを後継者にするか迷い、部下も二派に分かれた
曹丕には司馬懿や陳羣らがつき、曹植には楊修や丁儀らがついた
この争いは二一七年に曹丕が太子になったことで一応決着をみた
曹操は楊修が曹植のために様々な画策をしたことを忌み、二一九年に処刑した
臣下でありながら主君の家の事に口出しをした行為を快く思わなかったとともに、
そのすば抜けた頭の働きを警戒したためであろう
また、魏志陳思王植伝によれば、
曹操が楊修を始末したかった理由について、
楊修が袁術の甥にあたる姻戚関係にあったためだ、とされている
●演義では以下の通り
字は徳祖、大尉楊彪の子
狂士禰衡が「いま人物は孔融と楊修だけ」と話したときに名が登場
博学多弁で、倉庫の主簿として物語に登場し、
曹操の人物を見きわめにきた蜀の張松と弁をたたかわすが、軽くあしらわれる
それでは、と曹操の著書「孟徳新書」を読ませると一読暗記されて驚き、
一度曹操を怒らせた張松に、曹操との再度の対面を設定してやる
そこでも張松は曹操を怒らせ、楊修が命乞いをして死一等を減じてもらう
漢中をめぐる劉備軍との攻防戦のらちがあかぬ際、
曹操の言った「鶏肋」の意を夏侯惇に教えたため、
布令を勝手に解釈して軍令を乱したという理由で曹操の怒りを買い打ち首にされた
その際に、楊修が今まで幾度か曹操の意を解いてきたことや、
曹植のために模範解答集を作っていた等の逸話がまとめて物語られる
●以上からの結論
同一人物に間違いありません
殺された理由は正史と演義では違いますが、
二一九年の漢中からの撤退の関係で処刑されていることから、
正史を巧みに利用した創作であると言えましょう
羅貫中の話の組み立ての巧さが良く現れていますね
同一人物です。楊修は名門の出で、早くから曹操に仕え、その才能を買われていました。
「演義」の中では、「鶏肋」のナゾをただ一人読み解いて、勝手に撤退準備をさせたことが処刑の理由になっていますが、実際は曹操の後継者争いの中で、その才能を疎まれたということのようです。
はい、そうです。「三国志演義」で描かれています。
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