三國志
曹操は赤壁の戦いで敗北しましたがそれにより年齢の問題により中国大陸統一を半ば諦め魏の政治システムや曹家が皇帝になる準備に専念したとの意見をききましたが本
当でしょうか?
両方はやはり曹操では無理だった?
それとも曹操でも無理だった?
よろしくお願いします。
曹操でも無理だった、だと思います。一つにはこの時期三国とも
把握人口の減少が著しく、常設軍隊の兵力に限りがあった。良く
曹操は自ら兵を率いると強いが、他人に任せられなかったことで
勢力拡大に遅れ、統一できなかった、とあります。
間違いではないのですが、曹操健在時に最大で動員できる兵力は
恐らく3〜40万、この内、異民族や国境に配備しないとダメな
兵力を除くと、10〜15万程度しか遠征に連れて行けなかった
と思います。つまり他に任せるにも兵力を分散できる程の兵力を
維持することができなかったので、曹操本人が総動員して遠征を
行なった方が効率が良かったのです。
そう言う裏事情があるからこそ、守勢時の曹仁や張遼達の活躍が
際立つのですが、裏を返せばそれだけ兵が足りていなかった。
攻められて撃退はできるけど、攻撃するにはどこかに守りの薄い
地域を生じるリスクがつきまとう。208年当時曹操は既に50
を超える年齢でした。さすがにそこから統一は本人も難しい、と
考えてもおかしくありません。
あなたの言う通り年齢の問題であり、時間さえ限られていなければ無理ではないと思います。
曹操は合理的な人間であり、そういう一面も多々観られます。
本来であれば、中国大陸統一を成し遂げ、政治改革や曹家が皇帝へとう順だったのですが、赤壁での大敗により変えざるを得なかったんです。
もちろん自身の年齢も関係しています。
曹操は皇帝の座にはつきませんでしたが、魏公、魏王に封じられています。
公や王は皇帝へと続く道であり、劉家でなければというところです。
曹家の人間が公や王に封じられ、曹家が皇帝へと続く道を曹操がつくったのです。
赤壁の敗戦後、曹操はたくさんの改革を行っていますから、こういった面でも順が変わっただけで本来の目的を失っていない事が読み取れると思います。
曹操自身が皇帝の座を望んだとは思わないですが、軍備や時間があれば後に中国大陸統一を目指したと思います。
統一を諦めていたとはいえないです。結果的に統一出来なかったから、そう思えるだけです。
でなければ、漢中を攻めたり、呉と戦ったりしないでしょう。
次の晋は、皇帝になってから統一してますし、唐も宋も明も同様です。
曹操でも無理だったんです。
曹操は悪役化してますが実は凄い政治家でした。
自らは魏王にはなれど皇帝にはならなかったのです。帝に対する忠義があったんだと思います。
しかし息子の曹丕にはそれを禁じませんでした。
民は曹操が魏王になったことを寧ろ歓迎し曹操が帝位に付くことを望んでたそうです。
「宿題はまだ終わってないけど、まだ金も時間もあるから遊ぼう」
「宿題を全部終わらせてから思いっきり遊ぼう」
たぶん曹操だったら後者を選ぶと思います。
三国分立とはいっても、実質的には魏が最強の時代でした。
呉は南方の豊かだが未開の地、蜀は天然の要塞だが小さな辺境の地
それに対して魏は人口・領土面積・土地の開発度・人材量
どれをとっても完全に飛びぬけていました。
もはややろうと思えば曹操はすぐにでも帝位を簒奪し、曹家の王朝を立てることができたでしょう。
それでもやらなかったのは、単に「宿題(呉・蜀討伐)を片付けてから遊びたい(皇帝になりたい)」からだと思います。
ですから曹操が没した同じ年、すぐに曹丕は皇帝になれています。
もちろん曹操が次代のための準備を始めたのも事実でしょうが、
曹丕には一時期、実の弟でありライバルである曹植がいましたが、
曹操にはライバルも障害もありませんでした。
個人的な意見ですが、やろうと思えば新の王莽のように魏という国を興すことはできたと思いますが、曹操は自分が皇帝を簒奪する気はなかったのではないでしょうか。
なんやかんやいって曹操自身、赤壁の戦い時点で50歳を超えています。
赤壁の戦いに勝利したとしても、呉の征服まで数年、皇帝禅譲の準備にさらに数年…皇帝になったとしても混乱する国内を整備するには時間が足らないと思われます。
そこで曹操は統治のシステム、人材の確保など、次代の曹丕が皇帝の地位を欲した場合、円滑にことが進むように準備したということでしょう。
要は新の王莽ではなく、周の文王になろうとしてということですね。
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